1.実を結ばない種になるな
・イエスは弟子たちに例えで多くのことを教えられましたが、有名な例えの一つが「種蒔きの例え」です。こういう話です。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった」(マルコ4:3-7)。
・パレスチナでは11月から12月にかけて、大麦や小麦の種を蒔きます。最初に手で畑一杯に種をまき、その後で耕して土をかぶせるのが一般的です。手で蒔きますから、種はいろいろなところに落ちます。ある種は道端に落ちました。道端は踏み固められていますから種は根を下ろせず、やがて鳥が来て食べてしまいます。別な種は土が浅い岩地の上に落ちました。土が浅いため暖められてすぐに芽を出しますが、根を張っていないため、枯れてしまいます。別な種は茨の間に落ちました。種は発芽し、芽は伸びていきましたが、やがて茨にふさがれて、実を結べなかったとイエスは言われます。この種が福音=神の言葉であることは明らかです。神の言葉が宣教されました。道端にまかれた種とは、閉ざされた心に語られた言葉です。そのような人にイエスの言葉が伝えられても、種は発芽しません。岩地に落ちた種とは、イエスの言葉や行いを見て信じるようになりますが、すぐに冷めてしまう人たちのことでしょう。茨の間に落ちた種とは、生活の忙しさや困難の中で神の事柄を締め出してしまう人々のことです。
・この例えはイエスご自身の伝道体験から語られたものでしょう。言葉が語られても、ほとんどの人は聞こうとしないし、熱心に聴いた人もやがて去ってしまいます。しかし、種=神の言葉は力を持つ事を知っておられる故に、イエスは落胆されません。イエスは言われます「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」(4:8)。私たちもある時、イエスを通して神の言葉に触れ、バプテスマを受けました。しかし、やがて熱心はさめ、あるいは困難にぶつかり、教会から、また信仰から離れてしまいがちです。私たちの教会の在籍会員は100名を超えますが、現在教会につながっている方は30名前後にしか過ぎません。残りの70名はどこに行かれたのでしょうか。日本では毎年7千人がバプテスマを受けますが、多くの人は何年かすると教会から離れます。バプテスマを受けクリスチャンになっても、現実には学生として、職業人として、あるいは家庭の主婦としての生活があります。仕事が忙しい、日曜日は家族といたい、生活が大変だ。いろいろな理由から、教会から離れ、信仰から離れる人もあります。バプテスマを受けても病気は治らず、また困難な状況が解決されない場合もあるでしょう。信仰の甲斐がないとして、失望して教会を去られる方もおられます。信仰が生活の中に根付いていない時、信仰は成長せず、やがて枯れていきます。同じ問題を抱えていたのが、今日読みます、ヘブライ人の手紙(以下へブル書)の読者たちです。
2.信仰に踏みとどまれ
・ヘブル書は誰が書いたのか、誰あてに書いたのかが、はっきりとわかっていません。ただ、迫害に苦しむユダヤ人キリスト者たちにあてた手紙であることは明らかです。伝道により、多くのユダヤ人がキリスト教に改宗しましたが、改宗によって、彼らは家族や親族から絶縁され、地域共同体からも追われました。迫害の中で、一部の人たちは、福音を捨てて再びユダヤ教に戻ろうとしています。著者はこのような人々に、忍耐しなさいと励まし、同時に叱咤します。著者は言います「話すことがたくさんあるのですがあなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです」(5:11-12)。あなた方は長い間信仰生活を送り、今は教師として他の人を教え諭すべき時なのに、まだ自分の救いや苦難を問題にしている。それでは乳飲み子と同じではないかと著者は言います。
・彼は、「固い食べ物を食べることの出来る成熟したクリスチャンになりなさい」と勧めます。何故未熟ではいけないのか、それは「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」(6:4-6)と著者は言います。教えの初歩を卒業し、成熟した信仰を持たなければ、信仰から脱落する危険性があるのです。信仰から脱落する、キリストから離れる、それは霊的に死ぬことなのだ、だから信仰者として成熟せよと著者は強調します。
・著者は続けます「土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、焼かれてしまいます」(6:7-8)。土地は実を結ぶために開墾され、農夫は、豊かな収穫を目指して種を蒔きます。仮に何の収穫も無いばかりか、茨やあざみの雑草ばかり生えてきたら農夫はどうするでしょうか。その畑を焼いて、もう一度耕し直すでしょう。収穫が期待される畑をそのままには放置できないからです。
・実を結ばないぶどうの枝は切り取られ、捨てて燃やされます。イエスは言われました「私につながっていなさい。私もあなた方につながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない」(ヨハネ15:4)。キリストから離れることは霊的な死を意味します。著者は人々に生きてほしいのです。だから言います「愛する人たち、こんなふうに話してはいても、私たちはあなた方について、もっと良い事、救いにかかわる事があると確信しています。神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕える事によって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるような事はありません」(6:9-11)。
3.たといそうでなくとも
・今日の招詞に、ダニエル書3:17-18を選びました。次のような言葉です。「もしそんなことになれば、私たちの仕えている神は、その火の燃える炉から、私たちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、私たちを救い出されます。たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」(口語訳)。
・ダニエル書はバビロン捕囚の時代に、「金の像を拝まなければ、燃え盛る炉に投げ込む」と王から脅された信仰者の話です。彼らは答えます「神はこの危機的状態から、私たちを救いだして下さると信じています。しかし、たといそうでなくても、金の像を拝むことはしません」。「たといそうでなくても」、ここに信仰があります。自身の不信仰と戦う信仰です。自分の思い、自分の願い、自分の希望はありますが、仮に神がそうされなくても私は神を信じる、その信仰です。
・私たちは心のどこかで、「自分は神を信じ、神に仕えているから、神は私に良いことをしてくれるに違いない」と思っています。神が、私たちに祝福を、良いことを下さる方であることは、その通りです。しかし、神が良いと思うことと、私たちが良いと思うことは、違うかもしれません。この違いが、私たちの信仰に深刻な危機をもたらします。「神は私を愛しておられるはずなのに、どうしてこんな苦しみを与えられるのか」という思いが頭をもたげてきます。神の愛、神の支配が信じられなくなる危機です。このような危機は、信仰者の生涯において必ず訪れます。ヘブル書の読者たちが陥った苦しみもそうでした。クリスチャンになったばかりに迫害される、クリスチャンにならなければ良かったと彼らは思っているのです。著者は言います「この迫害、苦難こそ、あなた方を鍛えるための主の鍛錬なのだ。わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(12:5-6)。この試練を通して神は祝福を与えようとされている、だからなえた手と弱くなった膝を強くしなさい。私たちはこの様な危機を乗り超えなくては、キリスト者であり続けることは出来ないのです。
・そのためには信仰と希望と忍耐が必要です。この忍耐とはいたずらに我慢することではありません。神の約束の成就を、希望を持って待ち続けることです。ヘブル書は言います「私たちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです」(6:11−12)。私たちがキリスト者になったのは、個人的に見れば偶然です。しかし、神の目から見れば必然です。私たちは神から召されたのです。だからそれに相応しい者になっていくのです。「信仰者であり続ける。キリストにつながり続ける。霊の命をいただき続ける」、私たちの人生の最大目標です。