1.死を忘れるな
・今日、私たちは召天者記念礼拝を行う。これは死なれた個々の方を悼む礼拝ではなく、生きている私たちが「死とは何か」を考えるための礼拝だ。教会では死を悼まない。死とは天に帰る、天に召されることであり、悼む事柄ではないからだ。教会の葬儀も同じだ。死者を悼むためではなく、生きている人を慰めるために執り行われる。今日、私たちは詩篇90編を通して死と生の問題について御言葉を聴く。
・詩篇90編がまず私たちに語ることは「死を忘れるな」と言うことである。5-6節「あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます」。朝は咲いていた花も夕には枯れる。人の一生もそのようなものだと詩人は歌う。私たちの人生は死によって限界付けられている。人は誕生し、少年期、青年期を経て壮年期に至る。生きているうちに何事かを為したいと思い、学び・働き・結婚し、家族を形成する。幸運に恵まれ、一代で財を成す人もいれば、多くの家族に恵まれる人もいる。健康に恵まれた人は70代、80代まで生きることが出来る。しかし、振り返ってみれば、その人生は労苦と災いだと詩人は歌う。「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります」(90:10)。長生きしても振り返ってみれば、一瞬の人生であり、生涯を終えた肉体は焼かれて塵に帰る。「人は塵だから塵に帰る」、詩篇90編が歌うのは「人生の無常」だ。どのような人生を送ろうとも、振り返ればそれは無常の人生だ。
・私たちは生まれ、死んでいく。人生は誕生と死の間にあるひと時の時だ。しかし、多くの人は自分がこの限界の中にあることを認めようとしない。だから近親者の死に直面する時、私たちは「死んではならないはずのものが死んだ」という矛盾の中で苦しむ。特に幼い子や壮年者が死んだときほど、死の痛みは大きい。聖書は「私たちは死という限界の中にあることを覚えよ」と求める。それが12節の言葉だ「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」。詩人は、生涯の日を正しく数える、死ななければならない存在であることを教えてくださいと神に求める。これは非常に大事なことだ。何故なら、私たちは自分が死ぬ存在である、人生が一回限りのものであることを認めようとしない存在だからだ。私たちは無意識の内に死を他人事ととらえる。それは身内の死、親族の死、友人知己の死であり、自分の死ではない。死が他人事である限り、私たちは死について考えようとしない。死について考えないとは現在の生についても考えないことだ。聖書は私たちに求める「あなたは死ぬ。死ぬからこそ、現在をどう生きるかを求めよ」。
2.死を考えまいとする私たち
・私たちは死を考えまい、あるいは忘れようとする。その試みの一つが「魂の不死、あるいは霊魂の不滅」という信仰だ。人は死ぬがそれは肉体が滅びるのであって霊は滅びない、霊は肉体の死を超えて生きる。古代以来多くの人々がそう信じてきた。プラトン・アリストテレスから始まり、カントに至るまでそうだ。教会に来ているクリスチャンの大半も実は信じているのは復活ではなく、霊魂の不死ではないかと思える。母親は死んだ夫について子どもたちに教える「お父さんは今天にいてお前を見守ってくれている」。私たちも墓参りに行き死者に呼びかける「来ましたよ」。心情的には理解できるが、この信仰は人間のただの希望的願いだ。何の真実性もない。
・二番目は現在の生の肯定を通して、死から逃れようとする考え方だ。私はまだ死んでいない、まだ死という最終限界にまでは至っていない。今しばらくは死なないだろう。生きているうちに両手を広げて可能性を求め、充実した生を楽しみたい。世の多くの人の生き方がそうだ。今はまだ死を考える時ではない。20代、30代の多くの人はそう思う。問題は50代、60代になっても、そう考える人が多いことだ。このような生き方、死を考えまいとするいき方はいつか破綻する。死は必ず訪れるからだ。
・聖書は両者ともごまかしの生き方だと指摘する。人間の真の生き方は、死を忘れないこと、自分の限界を知ることだと述べる。有限性を知ることは自分が被造物に過ぎない、死に対する決定権が自分にはないことを認めることだ。そこから創造者である神を思う心が生まれる。死をおそれずに死と向き合う唯一の道は、命の創造者である神を覚えること、だから詩人は歌う「主よ、あなたは代々に私たちの宿るところ。山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神」(90:1-2)。私たちは神に創造された。それにもかかわらず私たちは死ぬ。それは何故か、私たちの罪のために神の怒りとして死が与えられたからだと詩人は言う。7-9節「あなたの怒りに私たちは絶え入り、あなたの憤りに恐れます。あなたは私たちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。私たちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせます」。罪の結果として、神の怒りとして、死がある。死から解放される道は神による罪の赦ししかない。だから詩人は祈る「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください」(90:13)。詩人は神が正義の神である故に罪びとである人に死が与えられた事を知る。同時に神は憐れみの神であり、人が求める時、恵んでくださる方であることを信じる。故に願う「朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。あなたが私たちを苦しめられた日々と、苦難に遭わされた年月を思って、私たちに喜びを返してください」(90:14-15)。
3.死を恐れるな
・今日の招詞にヨハネ11:25-26を選んだ。次のような言葉だ「イエスは言われた『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」。ラザロが死んで4日目にイエスはベタニヤ村に来られ、兄弟の死を悲しむマルタに言われた「あなたの兄弟は復活する」(ヨハネ1:23)。マルタは答えた「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」。マルタが信じているのは霊魂の不滅であり、今ここでのラザロのよみがえりではない。そのマルタにイエスは言われた「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない」。神は死者を生き返らせることが出来る。死んだラザロを今よみがえらせることが出来る。その神の力、神の憐れみを信じるか。マルタは信じることが出来ない。イエスはマルタのためにラザロを墓から呼び出され、ラザロは再び生きるものとなった。神の憐れみがイエスを通して示された。
・死んだ後どうなるのか、誰にもわからない。それは神を信じる者にもわからない。ただわかることはイエスが死んで復活されたこと、イエスが今も生きておられることの二点だ。イエスによって死が乗り越えられた。故に私たちはイエスが復活されたように、信仰者に復活の約束が与えられていることに希望を置く。イエスの復活を信じる時、信仰者は今ここで永遠の命の中に入る。永遠の命とは、死んで天国に行くことではない。今、死から解放されることだ。信仰者はバプテスマを受ける。バプテスマは水に入り、水から引き出される。水に入りイエスと共に死ぬ、水から引き出されイエスと共に復活の命に生きる。この罪の赦しを通して、死から解放され、新しい命に生きる。だから現在を誠実に生きよと命令される。だから私たちは死を悼まない。死とは終わりではなく、新しい命の出発だからだ。
・世の若者たちは死ぬことを考えないし、老人たちは自分たちの時代はもう終わったとして人生を諦める。そうではなく、若いうちから死を覚えて現在を誠実に生き、歳をとればこの世での残された日々を大切に生き、死ねば天に召される。生かされているとは、そのような希望を持つということだ。死を忘れるな、そして死を恐れるな。これが聖書のメッセージだ。