1.イザヤ40章−慰めの知らせ
・今日はアドベント第三主日だ。アドベントとは待ち望むという意味のラテン語だ。救いが来る事を待ち望む時がアドベントだ。アドベントの季節になると、ヘンデル「メサイア」が演奏される。メサイアとはヘブル語メシアの英訳、ギリシャ語ではキリストだ。救いを待ち望むアドベントの時に、救い主であられるキリストの物語を聴く、それがオラトリオ「メサイア」だ。「メサイア」は三部構成になっているが、その最初に歌われるのが、イザヤ40章1−5節である。救いの出来事は救い主の誕生から始まり、救い主の誕生ははるか昔から待望されていた。今日、私たちはそのイザヤ40章を通して、クリスマスのメッセージを聞こう。
・イザヤ40章の背景は紀元前6世紀のバビロンだ。紀元前587年、イスラエルはバビロニアに国を滅ぼされ、主だった人々はバビロンに捕虜として囚われた。歴史に名高いバビロン捕囚である。その亡国の民に、エレミヤやエゼキエル等の預言者が立てられ、言葉を伝えた「あなたたちは罪を犯した故に裁きを受けた。しかし、悔改めれば、神はあなたたちの罪を赦され、再びエルサレムに戻して下さる」と慰めた。それから50年の年月が流れた紀元前540年頃、神の言葉が預言者に再び臨んだ。
・エルサレムは既に廃墟となり、最初に連れて来られた民の大半は死に果てた。今は二世、三世の時代になっている。父親からエルサレムの話を聞かされ、いつかは戻りたいと言う願いも聞かされていたであろう。しかし、今は、何とかこの異郷の地で生きようと懸命であっただろう。そのような中で神の言葉が預言者に臨んだ「慰めよ、私の民を慰めよ・・・エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」(イザヤ40:1-2)。服役の時、捕囚の時は終った、あなたがたは赦された、エルサレムに帰る時が来たと預言者は告げられた。
・3節以下で、エルサレムへの帰還が語られる「主のために、荒れ野に道を備え、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」(イザヤ40:3-5)。バビロンからエルサレムまで、何千キロもの荒野や砂漠を経て、帰還する道が開かれる。主が山を低くし、谷を高くし、道を整えられる。50年の沈黙を破って神が再び語られた。それがイザヤ40章の預言である。
2.信じることの出来ない預言者に希望が与えられる
・預言者は第一世代の生き残りかも知れない。彼もエルサレム帰還の夢はとっくに失くしていた。今さら、エルサレムに帰ると言われてもとまどうばかりだ。彼は言う「呼びかけよ、と声は言う。私は言う、何と呼びかけたらよいのか、と」(40:6)。民に何を言えば良いのか。彼らは希望を無くしている。それは主よ、あなたのせいだ「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ」(40:7)。主よ、あなたが民を砕かれた。あなたがエルサレムを廃墟にされ、民を遠い異郷の地まで連れて来られた。そして50年間、あなたは私たちを放置された。あなたは、私たちの嘆きの声を聞かれなかった。その民に、今さら、何を語れと言われるのか。
・私たちも苦しみ、悲しみに圧倒された時、神が見えなくなる。神などいないと思う時がある。預言者も同じ思いに苦しんだ。神の沈黙ほど信仰者にとって、恐ろしいものはない。しかも50年間の沈黙だ。何故50年間も放置されていたのか。神は預言者の不信をねじ伏せて言葉を語らせる「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」(40:8)。言葉は続く「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。・・・見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む」(40:9-10)。
・イスラエルは、彼等を通して諸国民が救われるために、選びの民とされた。しかし、彼らは約束の地を与えられ、生活が豊かになり、安定してくると傲慢になった「自分の力と自分の手の働きで、私はこの富を得た」(申命記8:17)。神は預言者を通じて繰り返し、彼等に警告された「主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられた。もしあなたの神、主を忘れて他の神々に従い、これに仕え、これを拝むならば、あなたがたは滅ぶ」(申命記8:18-19)。人は順調な時には神を忘れる「私は自分の力で学び、自分の力でこの職を得た。そして、自分の働きで食べている。私は誰の世話にもなっていない」。日本でも多くの人たちがそう思っている。私たちが恵みを当たり前と思い、傲慢になった時、神は私たちを砕かれる。その砕きはある人には病気として、別の人には事業の失敗として与えられる。
・イスラエルへの砕きは、国の滅亡と異国への捕囚というものだった。この苦しくつらい体験がイスラエルを変えた。神は何故、選ばれた私たちを捨てられたのか、何故その都と定められたエルサレムを滅ぼされたのか、彼らは父祖からの伝承を読み直し、まとめ直していった。旧約聖書の主要部分、創世記や申命記、預言書等は、この時代に編集された。旧約聖書は絶望の中で書かれてきたのだ。そして今、苦しみの時は終わり、慰めの時が来たと民は告げられる。「主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」(イザヤ40:11)。
3.希望の訪れ
・今日、私たちは招詞として、詩篇126:5-6を選んだ。次のような言葉だ「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる」。詩篇126編はバビロンからエルサレムに帰還する民の喜びを歌ったものだ。あきらめていた祖国への帰還の道が開かれた。人々は歌った「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、私たちは夢を見ている人のようになった」(1節)。信じられないことが起こった。「私たちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちた」(2節)。彼らは讃美する「主は私たちに大きな業を成し遂げられた」(3節)。
・記録を見てみたら、私がこの教会で始めて説教をしたのは、2001年12月だった。その時、与えられた聖書個所がこのイザヤ40章だった。その最後は次のように締めくくられている「昔から、人々はこのイザヤ40章を、アドベント(待降節)の第二主日に聞いてきた。そして、今年の待降節第二主日は今日12月9日である。暗い夜に光が来る。それを待ち望む時が待降節である。暗い夜に光が来る。光は必ず来る、イザヤ40章はそれを約束する神の言葉である。神は、この言葉を、バビロンの地で希望を失っていた人々に語られた。そして2500年経った今、私たちもこの言葉を希望のメッセージとして聞く」。
・この教会は6年前に無牧になり、2年間牧師がいなかった。その時代、この教会は苦しみを体験した。会堂にあふれていた人も一人去り、二人去っていった。しかし、主は残る者を与えられた。それから4年の時が流れた。奏楽者のいなかった私たちはCDで讃美を歌ったが、今は奏楽者が与えられ、ピアノで歌う。CD讃美を経験した者でないと、ピアノ讃美の喜びはわからない。15年前の会堂改築費用の借金は大きな負担であった。支払猶予を申請しなければ立ち行かないと思えた時もあったが、主は必要なものを与えて下さり、私たちは今年、借入金を完済した。教会学校には子供たちがいなかったのに、今では子供たちの声が響くようになった。教会の壁や屋根には新しいペンキが塗られた。寂しかった教会のクリスマス・イルミネーションも一新され、町の人たちが見に来る。教会のホームページは、携帯電話からもアクセスできるようになった。信じられない出来事が私たちの教会に起こりつつある。「その時には、国々も言うであろう『主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた』」(126:2)。
・涙を流しながら種を蒔く人に、主は豊かな収穫を与えて下さった。「種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる」、この出来事が私たちにも起こったのだ。バビロンからの帰還が決して順調に行ったのではない事を私たちは歴史の中で知っている。バビロンから勇んで帰ったエルサレムは瓦礫の山であった。耕地は他人のものになっており、自分たちの家には他の人が住んでいた。帰還民はつぶやいた「約束が違うではないか。どこにエデンの園があるのだ」。私たちの教会にも、このようないさかい、つぶやきがこれからも起こるだろう。しかし、私たちは決定的な出来事を既に見た。歴史上、一旦滅ぼされた国が再建された例はない。一旦壊れた教会の再生も難しいことだ。しかし「主は私たちに大きな業を成し遂げられた」。このような経験をした者は、将来おこるであろう困難もまた神が助けてくださると信じることが出来る。「神は、これほど大きな死の危険から私たちを救って下さったし、また救って下さることでしょう。これからも救って下さるにちがいないと、私たちは神に希望をかけています」(〓コリント1:10)。このパウロの言葉を私たちは今日、覚えよう。私たちは自分たちの体験を通して、約束の成就を見た。私たちもバビロンから帰還したのだ。だから、私たちは良い知らせを地域の人々に告げ知らせるのだ。どのような苦難の中にあっても、それは災いではない。悔い改めれば、主は救って下さる。私たちはその証人だと。