1.約束の継続としての出エジプト
・先週、私たちは神がアブラハムを召し、彼を祝福するとの約束が与えられた事を見た。その約束は「あなたの子孫を星の数ほどに増やす」、「その子孫にこの地を与える」という二つの祝福だった。「子孫を星の数ほどに増やす」と言う約束は、子イサクが与えられることによって、その成就が始まった。「土地を与える」という約束はアブラハムの生前には実現しなかったが、イサク誕生というしるしを与えられたアブラハムは、それを「見ないで信じた」。その信仰の故にアブラハムは「信仰の父」と呼ばれた。神はイサクにヤコブを与え、ヤコブの時代に一族はエジプトに下る。エジプトで養われ、「星の数ほどに増える」ためである。このヤコブから12人の子が生まれ、彼らがイスラエル12部族の祖となっていく。
・それから400年の時が過ぎた。この400年間、神はイスラエルに何も語られなかった。彼らが順調に民族として成長し、介入する必要がなかったからだ。しかし、状況は変わる。イスラエル人の数があまりにも増え始めたため、エジプト王は脅威を抱くようになる「見よ、イスラエル人なるこの民は、我々にとってあまりにも多くまた強すぎる」(1:9)。こうしてエジプト人はイスラエルを弾圧し始める。イスラエル人は全て奴隷として、重労働に従事させられた。また、これ以上人が増えないように、「ヘブライ人の男児は全て殺せ」との命令が出された。イスラエルは苦しみ、うめき、叫び始める。その叫びが神に届いた。出エジプト記は書く「イスラエルの人々は労働の故にうめき、叫んだ。労働の故に助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」(3:23-25)。
・神はイスラエルを救済するために、モーセを立てられる。モーセと兄アロンとはエジプトに行き、「神が私たちを救うために立ち上がられた」と民に伝えた。民は、神が彼らの苦しみを見て彼らのために行為されると聞いて、感謝して神をほめたたえた。モーセとアロンはエジプト王の前に行き、イスラエル人を解放せよと求めた。王は要求を一蹴する「主とは何者なのか」(5:2)。エジプト王は奴隷達の要求を体制に対する反抗として怒り、逆に抑圧を強化させた。王はイスラエルの苦役を増すように命じた。イスラエルの主な仕事はれんがを作ることであった。れんがは泥に砂とわらを混ぜ、日に干して作った。これまで、わらはエジプトから供給されていたが、エジプト王は罰として、わらの供給を止めた。これからはイスラエルが自分たちでわらを集めなければいけない、労苦が大幅に増し加わった。この結果を見て、イスラエルの指導者たちは、モーセが王に不当な要求をしたため、苦しみが増したと告発する「あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです」(5:21)。
・最初、民は神が彼らの苦しみを聞いて行動を起こされたことに感謝し、礼拝した。しかし、物事がうまくいかないと、すぐに不平を言い始める。専制体制は、少数者が大衆の労働力から利益を得るピラミッド体制であり、「あめとむち」の政策が取られていた。イスラエル人は体制の中で苦しんでいたのに、より大きな困難が来ると、体制を懐かしがった。預言者たちもしばしば、神の言葉がすぐに成就しない故に、あざ笑う民の声に悩まされる。モーセも同じ苦難に直面する。神の言葉がすぐには成就しなかったからだ。
2.約束の確認
・エジプトに派遣されたモーセは、エジプト王に要求を拒否され、そのことによって民の信頼も失い、神に苦情を言う。そのモーセに神は再度、救いの約束を繰り返される。それが今日、読まれた出エジプト記6章だ。主はモーセに言われた「今や、あなたは、私がファラオにすることを見るであろう。私の強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。私の強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる」(6:1)。そしてモーセに計画は変わることなく実現すると約束される。しかし、状況は変化した。まず、派遣されたモーセが神の力に疑問を持っている。彼は言う「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。私を遣わされたのは、一体なぜですか。私があなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません。」(5:22-23)。民も、一旦はモーセを神からの使者として認めたのに、今は疑いを持っている。ファラオはモーセの予想以上にかたくなである。現状を見る限り、計画がうまく行っているとは思えない。
・モーセは神の励ましを受けて、再度民に語ったが、民はモーセの言葉を聞こうとはしない。「彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった」(6:9)。彼らは反論した「あなたが王に余計な事をしたため、労役は厳しくなったではないか」、人は目先の利害しか見ようとしない。神の介入が生活を苦しくしたと彼らは文句を言った。民の不従順を見て、モーセの信仰もまた揺らぐ。モーセでさえ、不信仰であったのだ。モーセは主に訴えた。「御覧のとおり、イスラエルの人々でさえ私に聞こうとしないのに、どうしてファラオが唇に割礼のない私の言うことを聞くでしょうか」(6:12)。
・モーセも民もファラオも従わない状況下で、神は約束を繰り返される「イスラエルの人々に言いなさい。私は主である。私はエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。そして、私はあなたたちを私の民とし、私はあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、私があなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る」(6:6-7)。いかなる状況下でも神の約束は継続する。この約束の継続こそ、旧・新両聖書を貫く福音だ。神はいつも共におられる。私たちが順調な時、神は私たちをただ見守っておられる。しかし、私たちが苦難に陥った時、神は私たちに語り、慰め、導いて下さる。神は決して私たちを見捨てられない。
3.救いの成就
・今日の招詞として、哀歌3:28-33を選んだ。次のような言葉だ「軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」。
・先週の祈祷会で私たちは申命記28章を学んだ。そこには、イスラエルに与えられる祝福と呪いが宣告されている。イスラエルが主に従うならば祝福が、背くならば呪いが与えられる。申命記28章を読んで気づくのは、祝福は短く、呪いは長いことだ。28章は68節からなる長い箇所であるが、祝福は最初の14節に過ぎず、残りの54節は呪いだ。旧約は民の堕落の歴史、それに対する神の呪いの歴史である。アブラハムへの祝福に始まった歴史が呪いへと落ちて行く。その呪いが国の滅亡、民の離散として、目の前の現実となった。その絶望の只中で書かれた記事が哀歌だ。バビロン軍がエルサレムに侵攻し、町は焼かれ、民は殺され、主だった人々は敵の都バビロンに捕虜として連れ行かれた。町はバビロン軍に占領され、人々は全てを失い、食べるものもない。絶望の中で人々はさまよっている。著者はこのエルサレム滅亡の目撃者だ。彼は絶望の中で神の名を呼び始める。祈り続ける中で、絶望が次第に希望に変わっていく。国の滅亡という裁きを受けたが、神は私たちを見捨てられない。あわてふためき騒ぎ立てることをせず、静かに神に信頼して与えられた軛を負っていこう。この困難もまた神のご計画の中にあるものなのだから。「塵に口をつけよ」、この困難を黙って受けよう。「打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ」、不正で残忍な取り扱いを受けても、忍ぼう。「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる」。
・この叫びがやがて神の赦しとなっていく。申命記30章1−4節の言葉だ「私があなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、私が今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される」。信仰者は絶対に行き詰らない。行き詰まりの底の底で神の名を呼び求めることがゆるされ、神は呼び求める者の声を聞いて下さるからだ。「助けを求める彼らの叫び声は神に届いた」(出エジプト記2:23)。私たちはこの神を信じて、ここに教会を立てていく。