1.働かざるもの、食うべからず
・「働かざるもの、食うべからず」、有名なことわざである。マルクスの言葉と誤解している人が多いが、元々は聖書の言葉だ。今日、私たちが学ぶ〓テサロニケ3章10節に出てくる。マルクスがこの言葉を「生産に役だたない者は食べる資格はない」という意味に使い始めてから、言葉はもともとの意味を超えて、使用されるようになって来た。会社においては業績の上がらない社員に対して「会社は慈善団体ではない。あなたが業績を上げないなら辞めてもらう。働かざるもの、食うべからずと言うではないか」として、首切りの理由にされる。夫は妻に対して言う「誰のおかげで食べていると思うのか。私が働いているからお前は生活が出来るのではないか。働かざるもの、食うべからずだ」。言われた妻は専業主婦であることを罪悪のように思い、社会に出て働かなければ一人前ではないと思い込まされる。
・聖書はどのような意味で、この言葉を使っているのだろうか。テサロニケはパウロとシラスの開拓伝道で立てられた教会だ。彼らはパウロから福音を聞いた「キリストが来られて、世はその意味を変えた。世と世のものは過ぎ去る。だから世に関らないようにしなさい」(〓コリント7:31)、「主の日は近い。だから目を覚ましていなさい」(マタイ24:42)。世の価値だけを求めて生きる、そのような行き方を変えて神の国を求めなさいという勧めだったが、テサロニケの一部の信徒はそれを別のように理解した「最後の日、主の日が来る。そうであれば、いまさら働いてもしようがない。教会に行って主に祈り、黙想の時を過ごそう」。そして彼らは教会の人々に言った「私たちはあなたがたのために祈るから、あなたがたは私たちにパンを与えなければいけない」。パウロはそのような人々を怠け者と呼んだ。「主の日が近いとして働くことをやめ、他の人の厄介になるのがキリストの教えられたことではない。キリストは今も働いておられる。だから、私たちも力の限りに働くのだ」。そしてパウロは言う「『働きたくない者は食べてはならない』と命じておいたではないか」(〓テサロニケ3:10)。ここに『働かざるもの、食うべからず』の言葉が生まれた。
・パウロは続ける「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。たゆまず良いことをしなさい」。パウロ自身、天幕作りをして生活費を稼ぎながら伝道していた。伝道者は奉仕教会から報酬を得て働くことが許されている。しかし、自分はパンをただでもらうことをせず、自活の道を求めてきた。他の人に負担をかけないためだ。それが当たり前なのだと彼は人々を戒める。ここでは「働けるのに働かない」、そのような人々が叱責されている。聖書は「働きたくないものは食べてはいけない」と言っているのであり、「働けない者は食べてはいけない」とは言っていない。病気のため、高齢のため、職が見つからないため、働けない人々がいる。それらの人々に「食べさせるな」と言われているのではないことをしっかりと認識することが必要だ。
・しかし、人間の思いは神の言葉を曲げる。「働かざるもの、食うべからず」、ドイツのナチス政権は、戦争が始まると、全国の施設にいた障害者の処刑を命じた。戦争という重大な時に、何の役にも立たない人間に与えるパンはないと彼らは言い、障害者を「生きる価値のない命」として殺した。日本では今年10月から介護保険法が改定され、老人ホームでの住居費や食費は自己負担となる。自宅にいれば住居費や食費は必要であり、ホーム入居のお年寄りから費用を徴収するのは当然だとの厚生省の主張であるが、その結果最低でも月10万円の老後収入のない人は特別養護老人ホームにも入れない。国民年金の年金額が満額で6万円であることを考えれば、非常に高いハードルだ。自己責任という美名の下で、貧しい高齢者は保護の対象外にされようとしている。「働かざるもの、食うべからず」とは怠けて働かないものを叱責する言葉だ。それなのに「働けないもの、食うべからず」と言葉が拡大・悪用されている。私たちは御言葉が曲がって使用されていることに抗議しなければいけない。
2.働くこと、神の業に参加すること
・今日の招詞に創世記2:15を選んだ。次のような言葉だ「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」。聖書は労働をどのように見ているのだろうか。創世記によれば、人はもともとエデンの園を耕し、守るものとしての使命が与えられている。人間は本来働くもの、働きを通して喜びを得るものとして創造されているのだ。その人間が神を離れ、自分が神になろうとした。その結果、人間はエデンの園を追われ、宣告された「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで」(創世記3:17-19)。ここで労働が苦痛に満ちた呪いの行為となる。働くという行為の中には、神に祝福された本来の喜びと、神に呪われた苦痛の双方の意味がある。労働と言う行為の中には喜びと苦痛の双方がある。怠け者は苦痛を避けようとして働くのを止め、勤勉な人は喜びを得ようとして働く。
・私たちクリスチャンはどうすべきか。私たちもかつては罪の縄目の中にあり、神の呪いの中にあった。しかし、キリストの十字架を通して赦され、今では神の子とされた。もう労働についての呪い、苦痛からは解放されている。だから一生懸命働け、働くものを神は祝福して下さるとパウロは言う。キリストが私たちのために働いてくれた。キリストは今も働いておられる。だから私たちも働く。働くとはキリストの業を共に担うことだ。ある人は言った「働く」とは「はた=他をらく=楽にする」。キリストにあっては、労働や職業は、世の中を楽にし、他者を愛するために存在する。従って怠けて働かない者はキリストから離れている。だから叱責されるのだ。
・働き方にはいろいろある。社会に出て働くばかりが働きではない。専業主婦も立派な働きだ。仮にその仕事をヘルパーの人に頼めば、月に15-20万円は必要となろう。それだけの価値の仕事が目に見えない形で為されている。寝たきりの老人も働くことが出来る。何も出来なくとも人のために祈る時、それは立派な仕事になる。人の話を嫌がらずに聞いてあげることも立派な働きだ。人はそれぞれ賜物(タラント)を与えられている。その与えられたタラントを持って働けばよい。高齢の人は高齢のままで、病気の人は病気のままで働けばよい。それがパウロのいう「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい」(〓テサロニケ3:12-13)ということだ。高齢の人も、病気の人も大事な働きが出来るのだ。他者のために祈る、これ以上に大事な働きがあろうか。
・最後にパウロは言う「もし、この手紙で私たちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい」(3:14-15)。怠惰な生活をしている人を避けなさい、悪い影響を受けるといけないから。しかし、その人たちを敵とはみなさず、兄弟として警告しなさい。「自分は働いているのにあの人は怠けている」と考える時、その警告は兄弟に対して批判的になり、お互いの絆は切れてしまう。そうではなく、その人が何故働けないのか、その理由を思い図り、働ける環境を作ってあげなさいと言われている。フリーターやニート(引きこもり)の人々が増えている。私たちは彼らが怠け者だから働かないのだと思いがちだが、実際は違う。10-20台の失業率は15-20%になっているし、失業率の増加と共にフリーターやニートが増えてきた。それらは失業の別の形なのだ。働きたくともふさわしい仕事がなく、ひきこもっている事例が多い。彼らの多くは良い仕事があればしたいのだ。私たちの役割は人を叱責することではなく、人にため祈り、自分に出来ることをすることだ。落ち着いて仕事をしなさい、たゆまず良いことをしなさい。自分の出来る事を求めて生きなさいと命じられている。
*ニート=Not In Employment ,Education or Training(NEET) 職に就かず学校にも通わず職業訓練を受けているのでもない人々の略