1.平和記念礼拝を迎えて
・私たちは8月に平和記念礼拝を持つ。8月は広島・長崎の原爆投下のあった時、敗戦記念日の属する月であり、平和を祈るのにふさわしい時だ。私たちの父母や兄弟が戦火の中で悔しい思いで死んでいった、だから私たちは二度と戦争を起こしてはならないと強調される。他方、中国や韓国の人にとって戦争とは、日本の占領下で父母や兄弟がどんなに苦しめられたか、強制連行された同胞が日本の鉱山や工場でどのように虐待されて死んで行ったかを想起する時だ。中国や韓国で戦争体験が語られる時、そこでは日本人への憎しみが語られる。それを私たちは数ヶ月前に起きた中国や韓国での反日デモの激しさで改めて知った。しかし、私たちは一つの疑問を持つ。日本人は戦争を原爆や空爆の被害者として語り、中国人や韓国人も戦争を父祖の被害体験として語る。何故私たちは戦争を自己の被害体験としてしか語れないのだろうか。
・今、NHKでは戦後60年を記念して毎日記念番組を放映している。8月11日の放映は「そして日本は焦土となった」というテーマだった。炎に包まれる街、次々と焼け死ぬ人々、第二次世界大戦は空からの爆撃で、都市そのものが戦場となり、市民が目標となる戦争となった。無差別爆撃は国際ルールで禁止されていたのに実行され、日本の都市はことごとく焦土となった。それは何故なのか。当初は各国とも空からの攻撃は軍事目標のみに限定していた。しかし、ドイツが最初にルールを破ってロンドンへの無差別爆撃を開始し、4万人が死んだ。イギリスは報復として、ドイツ各都市の無差別爆撃を開始し、30万人を殺した。日本へは1945年3月から都市への無差別爆撃が始まったが、その原型は1937年に行われた日本軍による重慶爆撃だった。焼夷弾を最初に開発したのは日本軍であった。報復が報復を呼び、終には軍事上の重要性も持たない地方都市までが空爆された。出来るだけ大勢の市民を殺戮することによって相手国の士気を弱め、戦争を早期終結させる目的だった。日本全土の空爆では40万人が死んだ。これは明らかに犯罪行為だ。しかし、私たちはこの行為を告発できない。何故なら、私たちもまた同じ行為をしてきたからだ。
・私たちは戦争を被害者の立場でしか語れない。その時、父を殺され、兄弟を殺されたと言う悲しみの事実だけが残り、相手を憎む。被害者の立場で戦争体験を継承する時、その体験は平和を生むのでなく、憎しみをもたらす。聖書はその人間の姿を「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え・・・肉の思いは死である」と表現する(ローマ8:5-6)。肉の思いとは自分の思い、自己中心の思いだ。自分のために神はあり、自分のために人はある。だから他人が自分の思う通りにならないと腹立たしくなり、争い、力で屈服させようとする。自分の力が強い時は加害者になり、力が弱い時は被害者になる。最初に無差別爆撃を行ったのはドイツと日本であり、そのドイツと日本が報復されたのは、自らの罪が招いた出来事だった。私たちは自らの戦争被害を訴える前に、この事実を知る必要がある。「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え・・・肉の思いは死である」、「やられたらやり返す」、この肉の思いが多くの死を招いた。聖書の言葉どおりの通りの出来事が私たちの国で起こった。
・人間はこの「罪と死の法則」(ローマ8:2)の中でもがき苦しんでいる、故にキリストが来られたと聖書は語る。キリストは自分を鞭打ち、十字架に架けようとする者たちを呪うことをせず、彼らのために祝福を祈られた。ここに被害と報復の悪循環が切り離され、被害者が加害者を赦す救いの道が開かれた。パウロは同じ箇所で述べる「霊に従って歩む者は、霊に属することを考え・・・霊の思いは命と平和であります」。人が自分の罪を知り、その罪のためにキリストが死なれたことを知る。それが「霊の思い」だ。肉の思いは死をもたらし、霊の思いは命をもたらす。この御言葉が先の戦争においてそのまま成就した。
・何故キリストに従う時に平和と命が与えられるのか。それはキリストを通して私たちが神の子としていただく道が開けたからだとパウロは述べる。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私たちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ8:14-15)。奴隷は主人を恐れる。主人は強く、奴隷は弱い、命令に背いたならば殺されるかもしれない。だから従う。その服従の根底にあるものは怯え、不安だ。神と私たちの関係は異なる。私たちは力で奴隷にされたのではなく、神の子として迎え入れられた。そこにあるのは親子の関係であり、信頼関係だ。だから、神に従う時、平安が、心からの従順が与えられるのだ。
2.他者のうめきに連帯する
・人は有史以来戦争ばかりをして来た。日本人にとって戦争は1945年8月15日に終わったが、世界は戦争を続けている。世界はまだ肉の思いから、罪と死の法則から解放されていない。この人間の罪のゆえに、世界全体が、被造物全てがうめいている。世界は滅びに向かっているかのようだ。しかし、パウロはそうではない、このうめきは産みの苦しみなのだと私たちに教える。彼は言う「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています」(8:22)。「共にうめく」という言葉は原語では「スステナゾー」という。スン=共に、ステナゾウー=うめくという二つの言葉が組み合わせられている。英語のシンパシー=共感と言う言葉はこの「スステナゾー」から来る。私たちがキリスト者にさせられると言うことは、キリストと共にうめき、キリストと共に苦しむことを知る者とさせられることだ。
・私たちがうめきながら祈る時、キリストもうめきながら共に祈られる。パウロは言う「霊も弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(8:26)。「天の父よ」と私たちが祈り始める時、私たちは兄弟姉妹が苦しんでいることに無関心ではいられない。私たちが子とせられたことは、苦しむ人たちも子とせられたことであり、彼らは私たちの兄弟姉妹だ。私たちの兄弟姉妹であれば、その苦しみ、悲しみは、私たちの苦しみ、悲しみだ。祈ることを通して、私たちは「共にうめき」、「共に苦しむ」ことを知っていく。
3.私を呼べと言って下さる神
・今日の招詞に詩篇50:14-15を選んだ。次のような言葉だ。「告白を神へのいけにえとしてささげ、いと高き神に満願の献げ物をせよ。それから、私を呼ぶがよい。苦難の日、私はお前を救おう。そのことによって、お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」
・人は苦難の時に神に祈ることが出来なくなる。神があるならば何故このような苦しみが与えられるのか、私たちは判らなくなり、神から離れていく。神はその時「私から離れるな、私を呼べ」と言われる。神は私たちの苦しみを知っておられる。しかし、神は私たちを子として愛する故に、苦しみを取り去るのではなく、苦しみの意味を教えて下さる。苦しみを通して成長することを願われる。そして、私たちは苦しみを耐える力を与えられる。
・被造物全体が虚無に服している。私たちは自己の苦しみを通して、それを知る。希望を持って結婚したのに、夫が酒乱で暴力を振るう人であることがわかる。たったそれだけのことで私たちは不幸になる。子供が生まれ、順調に育ち、中学に行き、高校に行く。学校でいじめに会うと、子供は学校に行けなくなり、部屋に引きこもる。たったそれだけで、私たちの人生は苦しいものになる。その時、私たちが自己の苦しみだけを見つめ、何と不幸なのだろうかと思い始めるとき、その苦しみは私たちを滅ぼす。肉の思いは死をもたらすのだ。しかし、私たちが神の名を呼び始める時、苦しみの意味を求め始めた時、状況は変わり始める。酒乱の夫や不登校の子どもに苦しめられている人が多いことを知らされ、その人々のために自分が召されたことを知る時、私たちは自分に出来ることをやり始める。その時、共にうめく祈りが、産みの苦しみに変わり始める。
・先のNHKの番組の中で、ドイツ空爆に参加した元イギリス軍将校が出ていた。彼は8回の空爆に参加し、9回目に撃墜されて捕虜となった。捕虜としてドイツの町を連行されて彼が見たものは、地獄であった。廃墟となった町、黒焦げになった死体の山、上空からは見えなかった自己の罪の結果を目の前に見せられた。その時、彼は跪いて言った「私は何ということをしたのだろう。何をしても償えないほどの恐ろしい罪を犯した。神も私を赦されないだろう」。彼はこの現実、この地獄を見るために、飛行機から落とされた。落とされて初めて自分の罪の恐ろしさを知った。彼はその後の人生を贖いのために生きてきた。この人は「共にうめく」ことの意味を知った。
・信仰者は祈ることを許されている。祈りを通して自己の有限性が、被害体験は語れても加害体験は語れない真実が見えてくる。自己が加害者であることを知る、即ち罪人であることを知る時、私たちはもはや他者に石を投げることは出来なくなる。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」とイエスに問われた時、私たちは石を捨てる、捨てざるを得ない。私たちは報復しない者に変えられていく。加害者としての被害者のうめきに連帯する時、私たちはキリストに従うものとなる。