1.主の祈り
・私たちは毎日祈る。祈りを通して、私たちは神と対話する。ところが、私たちの祈りは大半、求める祈りであり、対話ではなく、要求だ。「神様、こうしてください。ああしてください」と、私たちは祈り、願いどおりにならない時、祈りが聞かれなかったとして神を恨む。一方通行の祈りだ。イエスは私たちに、そのような祈りを止めなさいと教えられた。「父は願う前から、あなた方に必要なものはご存知である。そして必要なものは与えられる。だから、求めるのではなく、あなたの心を父に語りなさい。父は聞いてくださる」と。そして次のように祈ることを教えられた。それが主の祈りだ。
・今日は、この主の祈りをマタイ6章の視点から採り上げ、共に学んで見たい。マタイ6章を見ると、最初に「天おられる私たちの父よ」と呼びかけられている。神が「アバ=お父さん」という親しさで呼びかけられている。これはイエス以前にはなく、イエスを通して、私たちも神を父と呼ぶことが許された。罪ある私たちさえ、子としてくださるということだ。私たちは子として父に祈るのだ。次に六つの祈りがあり、前半の三つの祈りは、「あなたなる神への祈り」である。「あなたの御名が崇められますように」、「あなたの御国が来ますように」、「あなたの御心が行われますように」、祈りは父への呼びかけから始まる。呼びかけを通して、私たちは父の御声を聞く。そして、この地上で、神が神として崇められ、その御心が為されることを願う。現実の世界では、神は神として崇められず、御心はなされていない。それを知った時、私たちは「この地上に私たちが派遣されていますから、私たちを用いて、御心を行ってください」と祈る。主の祈りは私たちに行動を迫る。
・後半の三つの祈りは「私ではなく、私たち」の祈りだ。「私たちの必要な糧を与えたまえ」、「私たちの負い目を赦したまえ」、「私たちを試みから救いたまえ」。イエスが教えられた祈りは、「私たちの」祈りであり、個人の祈りではない。共同体の祈りだ。その共同体とは教会に集う人たちだけのものではなく、開かれている。「私たちの今日の糧を与えたまえ」、この教会に来る人はみな、十分に食べることが出来る。しかし、食べることの出来ない人々もいる。必然的に食糧の公平な分配がこの祈りの課題になる。日本人を拉致して返さない北朝鮮への経済制裁を主張する人は多いが、その経済制裁により、北朝鮮で飢えている人の飢えが加速されるとしたら、私たちは反対すべきであろう。体制がどうあれ、食べることの出来ない人がいれば、食糧援助をすべきだ。少なくとも、聖書はそう教える。
・マタイでは祈りの後に、言葉が続く「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(6:14-15)。これは、第五の祈り「私たちの負い目を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」をもう一度確認されたものだ。六つの祈りはどれも大事だが、その中でも、五番目の祈りをイエスは大切にされている。私たちも、この五番目の祈り「他者の罪を赦す」に焦点を合わせて、主の祈りを見ていこう。
2.罪を赦すとは自分の債権を放棄すること
・ルカでは、「私たちの罪を赦してください」とある箇所が、マタイでは、「負い目を赦してください」と言い換えられている。負い目とは借金、負債のことだ。借りたお金は返さなければいけないように、犯した罪も購われる必要がある。私たちが相手に対して罪を犯す、あるいは相手が私たちに罪を犯す、そのことにより、両者の関係は壊れる。その関係を修復するためには、罪の贖いが必要だ。それは罪を悔い、相手に謝ることだ。しかし、私たちは謝る事が出来ない。「私も悪いかも知れないが、あなたも悪い。私にも言い分はある」。謝らない私たちが、相手から被害を受けた場合は相手を絶対に赦せないと思って行く。アメリカの教科書にはパールハーバーの被害は詳しく乗るが、原爆の加害については、一行で終わる。日本の教科書では、原爆被害は詳細に記すが、中国での加害については簡略だ。みな、被害は大きく、加害は小さく考える。それが自然の人間だ。私たちは互いに、相手の罪の負債を数えながら生きている。だから、相手と和解できず、平安になれない。そのような私たちにイエスは言われる「私が相手の負債を赦しましたから、私の負債をも赦してくださいと祈りなさい」と。
・罪が負債であれば、罪を赦すとは相手の負債を免除する、相手の借金を帳消しにすることだ。そうすれば、貸した人は損をする、相手を赦すとは、そういう損害が発生する、痛みが伴う行為だ。だから、自分が赦されている事を知らない限り、出来ない。マタイ18章に「仲間を赦さない家来の例え」がある。1万タラントを王から赦された家来が100デナリを貸していた人を赦さなかったことから、彼もまた先の赦しを取り消されるという話だ。1タラントは6000デナリ、1デナリが1日分の賃金だから、1万タラントは数百億円以上の大金に当たる。数百億円を赦されながら、100万円の負債を赦さない者は、神もまた赦されない。あなたがたは1万タラントを赦されている存在なのだとイエスは言われる。私たちが赦しの中にあることを知らないならば、相手を赦すことは出来ない。赦しは神を知らない者には出来ない。
3.逃れの町を作られた神
・今日の招詞に詩篇51:6-7を選んだ。次のような言葉だ「あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。私は咎のうちに産み落とされ、母が私を身ごもったときも、私は罪のうちにあったのです」。
・詩篇の前書きを読むと「ダビデがバトシェバと通じたので、預言者ナタンがダビデのもとに来た時」と書いてある。ダビデは、自分の部下ウリヤの妻バテシェバに不倫の思いを抱き、ウリヤを戦場で死なせ、その妻を奪うという罪を犯す。そのことが預言者ナタンを通して明るみに出された時、彼は七日七夜泣いて、悔い改めた。王であることも、人目をはばかることも忘れ、神の前に、ただ一個の罪人として泣き崩れた。そのダビデの祈りがこの詩篇だ。彼は神に赦しを請い、祈る「あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」。私たちは、この箇所を読んでおかしいではないかと思う。ダビデはウリヤを殺し、その妻バテシェバを奪った。謝るべきはウリヤであり、バテシェバではないか。しかし彼は言う「あなたに、あなたのみに、罪を犯しました」。ダビデの罪はウリヤを殺したことに尽きず、その背後におられる神に対して罪を犯した故に「あなたに罪を犯しました」とダビデは言う。私の罪を本当に裁くことが出来るのはあなたであり、それ故にその罪を本当に赦してくださるのもあなただけですとダビデは叫ぶ。神に赦していただくことにより、隣人との関係が回復するのだ。
・彼は続ける「私は咎のうちに産み落とされ、母が私を身ごもったときも、私は罪のうちにあったのです」。正当な結婚関係の中に生まれたとしても、その子は罪の中にはらまれた、だからこのような罪を犯すのだとダビデは告白する。そして、神こそこの罪を赦してくださる方、あなたこそ背きの罪を拭い去る方とダビデは告白する(51:3-4)。私たちもこのダビデと同じだ。人の妻を欲しがり、その夫を殺すようなことはしていないかも知れないが、心の中では同じ欲望を持っている。私たちは神の前に1万タラントの負債を抱えている存在なのだ。その存在が今を生きることを赦されている。何故、他者の持つ100デナリの負債を責められよう。
・先週、JR宝塚線で脱線事故があり、100名を越える方が亡くなられた。事故原因として、電車の遅れを取り戻すために、無理なスピードでカーブに突入したことが主因と考えられている。電車は前の駅で80メートルのオーバーランをして、そのために1分半の遅れが出ていた。電車の運行を秒単位で計測し、遅れた場合は処罰するという運行体制の下で、運転士はあせって高速度で電車を運行し、そのために事故が起きたと見られている。運転士の責任を問う声も多いが、事故の根底にあるものは、「過失をも赦さない」私たちの社会の在り方だ。数秒、数十秒の遅れを咎め、事故を起こしたら過失責任を問う。この赦しの無い体制が事故を招いた。
・私たちの聖書は「逃れの町」という規定を持つ。民数記35:11には次のようにある「自分たちのために幾つかの町を選んで逃れの町とし、過って人を殺した者が逃げ込むことができるようにしなさい」。古代においては、人を殺した者は報復として殺された。原因が過失であろうと、血の復讐者は殺した者の命を付狙った。そのような社会の中で、主は「あなたたちが約束の地に入った時には六つの逃れの町を作り、誤って罪を犯した者を保護せよ」と言われた。今から3000年前に設けられた規定だ。逃れの町は、神の国の予表だ。そして神の国の福音は赦しだ。私たちは赦しの無い社会の中で、赦しを伝えるように召されている。神に赦されていることを知るキリスト者だけが、他者を赦すことを伝えることが出来る。ダビデの罪を赦される方は、運転士の罪も赦されている。むしろ、運転士を励まし、逃れの町に行くように、勧めておられる。私たちはこの篠崎キリスト教会を「逃れの町」として形成したい。赦しの無い社会につかれた人びとが逃げ込める場所だ。そのことを通して、私たちは「主の御名が崇められ」「御心が地にも為されるように」行為し始めるのだ。