江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年4月24日説教(ヨハネ14:1-17、神を信じ、私を信じなさい)

投稿日:2005年4月24日 更新日:

1.心騒がせる弟子たち

・イエスは、木曜日の夜、弟子たちと最後の食事をされた。有名な最後の晩餐だ。イエスはこの世を去り、父の元へ帰る時が来たことを悟り、弟子たちの足を洗われ、言われた。「私はこれからいなくなる。私のいない後、あなたたちが互いに仕え合うように、私はあなたたちの足を洗った」。イスカリオテのユダは、この後すぐ、イエスを売るために部屋を出る。やがてイエスを逮捕するために兵士たちが来るだろう。弟子たちは、これまでイエスの受難予告を何度も聴いて来た。しかし、真剣にはとらえていない。むしろ、イエスがエルサレムに行かれたら、王として即位されるのではと期待していた。しかし、イエスの言われた栄光とは、イエスが捕らえられ、十字架で殺されることであることが、今ははっきりわかった。危険が切迫していることをまざまざと感じ取った。先生がいなくなる、自分たちはこれからどうすればよいのか。弟子たちの間に動揺が広がった。その弟子たちにイエスは言われた「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい」。

・未来はわからない、これからどうなるのか不安だ、弟子たちの心は騒ぐ。その弟子たちにイエスは言われたのだ。「未来もまた神の支配下にある。神を信じ、また神が遣わされた私を信じるならば、恐れも不安もないではないか」。しかし、弟子たちは信じきれない。イエスは「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われたが、弟子たちは理解できない。懐疑家のトマスは尋ねた「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」(ヨハネ14:5)。

・イエスは言われた「私は道であり、真理であり、命である。・・・あなたがたが私を知っているなら、私の父をも知る。・・・あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」。子において父が啓示される。私たちはイエスの言葉を通して、神を知る。しかし、人はそれに満足できない。聞いてもわからない、この目で神を見ないと信じられない。故にピリポは求めた「主よ、私たちに御父をお示しください」(14:8)。イエスは歎かれた「ピリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。何故御父をお示しくださいと言うのか」。私たちは自分で見て、体験しないと、わからない。だから、弟子たちも今から、イエスの十字架とその後の絶望を体験する。絶望のどん底まで下って、そこに光を見出さない限り、イエスを信じれば不安はないのだということはわからないだろう。十字架を経ないと、復活の喜びはないのだ。

2.どん底の中で光を見る

・先週の水曜日(4月20日)、テレビでドラマ「獄窓記」を見た。政策秘書の給与流用事件で、実刑判決を受け、服役した元衆議院議員・山本譲司氏の体験をドラマ化したものだ。彼は学生時代から社会問題に関心を持ち、民主党・管直人代議士の秘書となり、26歳で都議会議員になり、30代で衆議院議員に当選する。しかし、政策秘書の給与流用疑惑で逮捕され、懲役1年半の実刑判決を受け、栃木県の黒羽刑務所に服役した。その間の経験をまとめたものが原著の「獄窓記」である。

・代議士になると、国から政策秘書の給与が支給されるが、実際は名目的に政策秘書を雇い、その給与を私設秘書の人件費に当てるのが暗黙の了解になっており、多くの政治家が行っていた。山本氏は政策秘書の給与流用疑惑が具体化すると、最初はそれをもみ消そうとした。それに失敗し、逮捕されると「みんながやっているではないか」と抗議した。その抗議も無視され、裁判で実刑判決が出ると、控訴して執行猶予を獲得しようとした。その全てが駄目になり、彼は服役する。イエスの死を知らされた弟子たちのように彼も「心を騒がせた」のである。

・当初は府中刑務所に収監されたが、やがて黒羽刑務所に移される。その黒羽で、彼は、障害者や痴呆老人などが働く「寮内工場」で、障害を持った受刑者の身の回りの世話をする指導補助の仕事を与えられる。そこで初めて、障害を持った人がいかに多く刑務所に収容され、またいかに悲惨な生活を強いられているかを目の辺りに見て、激しく心をゆすぶられる。日本では年間3万人が受刑者として入獄するが、その内7千人、4人に1人は知的障害者と認定されるIQ70以下の人だと言う。障害者の受刑率が異常に高いが、それは障害者が罪を犯しやすいということではなく、彼らは実に軽微な罪、健常者であれば執行猶予がつくような、自転車泥棒やパンの万引き等で実刑判決を受け、刑務所に収監される。生活能力の低い障害者を受入れる場所が社会に少ないから、刑務所が施設代わりになっているという現実があるのだ。

・ある受刑障害者の言葉に、山本氏は考えこむ。「僕ら障害者は生まれながらに罰を受けている。生まれた時に、右手切断の刑を言い渡されたようなものだ。だから、罰を受けるのは、一般社会でも刑務所でもいい。むしろ、塀の外よりも、刑務所の方が暮らしやすい」。自由も尊厳もない刑務所の方が、外の社会よりも暮らしやすい、そう思う人たちがこれほどたくさんいる。障害を持った受刑者たちは刑期を終えても行く所がない。だから、また泥棒や万引きをして刑務所に戻ってくる。私たちは何という社会を作ってしまったのか。山本氏は、刑期を終えた今、知的障害者更正施設「八王子平和の家」で障害者介護の仕事をしながら、出所した障害者の受入れ施設を作るための活動をしている。彼はいう「実刑を受けてよかった。監獄に行かなければ見えない現実があることを知ったのだから」。彼はクリスチャンではない。しかし、イエスの弟子たちがこれからたどるであろう同じ道を歩んだ。そして、どん底の中で、光を見た。

3.神を信じ、私を信じなさい

・今日の招詞にマタイ6:34を選んだ。次のような言葉だ「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。

・有名なイエスの山上の説教の一節である。何を食べようか、何を着ようかといって思い悩まず、野の花や空の鳥を見よ、と言う言葉の後に語られている。空の鳥は、種も蒔かず、刈入れもせず、収穫物を倉に納めもしない。しかし、天の父は彼らを養って下さっている。野の花は働きもせず、紡ぎもしないのに、春になると花を咲かせる。天の父が雨を降らし、太陽の光を与えて下さるからである。人間は生きるためにあれこれ苦労する。自分の住宅を所有していない人は、収入の無くなった老後はどこに住めば良いのかと悩む。住宅を持っている人は地震で住宅が壊れたらどうしようと心配する。しかし、心配をした所で、事がうまく運ぶわけではないし、物事が変化するわけではない。野の花や空の鳥は明日何が起こるかわからない所で暮らしているが、何事もないかのように自然に生きている。すっかり身を任せて生きているからである。あなたも身を任せて生きることを知れば、思い煩う必要はなくなるとイエスは言われている。

・イエスは恐れ惑う弟子たちに「心を騒がせるな。神を信じ、私を信じなさい」と言われた。また、「私は戻ってくる」と約束された。イエスは死して父の御許に行かれ、戻って来て、私たちと共にいると約束される。私たちは既に聖霊降臨(ペンテコステ)という形でこれが成された事を知っている。私たちは来月の15日にペンテコステの日を迎える。イエスは共にいてくださるのだ。神が天にいて、私たちは地にいて、死ねば天国に行くのではない。神が共にて下さるのであれば、既にここが天国なのだ。私たちは天の民として、この地の国を歩んでいるのだ。だからイエスは私たちを励まされる「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。

・現実がどのように厳しいものであっても、その現実に立ち向かう時、現実が変化していく。山本譲司氏が秘書給与の流用疑惑が表面化した時、最も恐れたのは、自分が捕らえられ、刑務所に収監され、議員と言う立場を失うことだった。その恐れが現実のものとなり、彼は刑務所に行く。しかし、彼は言う「実刑を受けてよかった」。イエスがいなくなったらどうしようかと思い悩んだ弟子たちも、その恐れがイエスの逮捕と自分たちへの身の危険という結果になった。その弟子たちがやがて復活のイエスに出会い、再び集められていく。弟子たちも言う「イエスは私たちのために命を捨ててくださいました。そのことによって私たちは愛を知りました」(〓ヨハネ3:16)。あれほど恐れていた十字架を、感謝する者に変えられた。私たちは未来を恐れる必要はない。未来もまた神の御手の中にある。それを信じて委ねればよい。将来の不安が現実化した時には、その不安の中でもだえ、神を呼び求めればよい。その時、恐れていた現実が、恵みの約束に変わっていく。行きたくないと思っていた刑務所が人生をやり直す場になり、見たくないと思っていた十字架が感謝の出来事に変わるのだ。

・ノンクリスチャンの山本氏でさえ、どん底の中に光を見出し、生き返った。ましてや、約束を与えられている私たちが、この世で路頭に迷うことはない。だから、私たちはどのような状況の中にあっても希望を失わない。神が共にいて下さるからだ。そのことを信じる時、もうそれ以上のものはいらない。パウロは言う「私たちは落胆しません。たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます。私たちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(〓コリント4:16-18)。

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