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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年4月17日説教(ヨハネ11:17-27、我は復活を信ず)

投稿日:2005年4月17日 更新日:

1.ラザロの復活

・今、日本は高齢化が進行し、そのために多くの問題が生じている。その焦点は、60歳問題と70歳問題だ。60歳問題とは、老後を支える年金や医療をどうするのかと言う問題で、各種年金の統合や医療費の抑制等、社会保障が中心議題になっている。次の問題は70歳問題で、長生きに伴って発生する寝たきりや痴呆の問題をどうするのか、誰が介護し、その費用を誰が負担するのかと言う問題であり、この介護問題も大事な問題だ。この二つに比し、80歳問題はあまり騒がれていない。80歳問題とは、死をどのように受容するかと言う問題である。60歳問題、70歳問題は、大事な問題ではあるが、お金で解決可能であり、何とかなる。最後の80歳問題は、解決の方法が人間の知恵では見つからないという意味で深刻だ。

・人間は必ず死ぬが、死んだ後どうなるのかは誰にもわからない。誰も経験したことがなく、死んだ人は戻ってこないからだ。わからないけれど、避けて通れない問題であり、また現在をどう生きるかを左右する問題でもある。死で全てが終わると考える時、私たちは現在を楽しむしかないが、死は必ず来るから、いつかの時点でそれは重い問題となる。他方、地上の生が終わっても、新しい生が始まるのだと信じる時、死を超えた人生のあり方、現在を神により生かされているとの希望を持つ。誰もが、肉体の死を超えた永遠の命を求めているが、それがあるのかどうか、信じきることが出来ない、それが問題である。死後の命はあるのか、聖書の語る永遠の命を私たちは信じることが出来るのか。今日はヨハネ福音書の「ラザロの復活」の話を通して、それを学んでみたい。

・ラザロの物語は11章の始めから続く。イエスはヨルダン川の向こう側、エルサレムから離れた所で、人々を教えておられた。そこにベタニア村のマルタ、マリアの姉妹から「兄弟ラザロが重い病気で死にそうだから、すぐに来て欲しい」との連絡があった。ベタニア村はエルサレムの近郊にあった。イエスは直前にエルサレムでユダヤ人と対立され、ユダヤ人たちはイエスの命を狙うようになっていた。そのため、イエスはユダヤ人たちを遁れて、今ヨルダン川の東側におられた。ベタニアに行くことは命の危険を意味したが、イエスはラザロを助けるために行くことを決意された。しかし、イエスがベタニアに着かれたとき、ラザロは既に死んで4日が経っていた。

・マルタはイエスが来られたと聞き、イエスを迎えに行くが、会うなり、恨み言を言った「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ11:21)。もう少し早く来てくれれば、兄弟の命は助かったでしょうにと、マルタは言った。その言葉には、イエスがいたら治してもらえたという素朴な信仰と、死んだ以上はこの方も何も出来ないという絶望の、双方の気持ちが混じっている。そのマリアにイエスは言われた「あなたの兄弟は復活する」。旧約聖書には「終末の時に神の審きがあり、正しい者はよみがえる」との信仰がある。だから、マルタは言った「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」。私たちも、親しい人が亡くなった時、その人は天にいて私たちをも守ってくれており、自分が死ねば、天国で再び会えると漠然と信じている。この未来の終末論はどの宗教にもあり、その意味で、復活や死後の命を信じることはそう難しくない。

・しかし、イエスが言われたのは、今、現在のよみがえりだ。イエスは言われる「私はよみがえりであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる」(11:25、口語訳)。「死んだ者を生き返らせる力を持つ者がここにいる。あなたはそれを信じるか」とイエスは言われたのだ。死もまた神の支配下にあることを信じるかと問われている。マルタは応える「あなたが神の子、メシアであることは信じています」。マルタはイエスの問いに真正面から向き合っていない。彼女は兄弟ラザロが、今ここでよみがえることを信じていない。誰が、死んだ者が生き返ることを信じることが出来ようか。そんなことは聞いたことが無い。私たちも、死んだ者が生き返ることを信じることが出来ない。ここに、死が私たちにとって大きな束縛、絶望として、立ちはだかる。

2.神の力を信じることが出来るのか

・今日の招詞に、ヨハネ11:39-40を選んだ。次のような言葉だ「イエスが、『その石を取りのけなさい』と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日もたっていますから、もうにおいます』と言った。イエスは、『もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか』と言われた」。

・信じる者はたとい死んでも生きる、あなたはそれを信じるかとイエスはマルタに言われた。4日前に死んだラザロが生き返ることを信じるか、信じきれるかとイエスは問われた。マルタは「はい」と答えたたが、彼女は信じていない。イエスがラザロの墓の所に行き、墓を覆っていた石を取り除きなさいと言われた時、マルタは答える「主よ、4日も経っていますから、もうにおいます」。ラザロの遺体は腐敗を始めている、いくらあなたでも、この死んだラザロを生き返らせることは出来ないとマルタは言った。それに対してイエスは言われた「もし信じるなら神の栄光が見られると言ったではないか」。死んだ者を生き返らせる力を持つ者がここにいるとあなたに言ったではないか。何故信じないのか。イエスは墓に向かって叫ばれた「ラザロ、出てきなさい」。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出てきたとヨハネは記す(11:44)。

・ここで問われていることは、霊魂は不滅であり、人は死んでも、その霊は生きるという信仰ではない。ラザロの体がよみがえったように、私たちも復活するということだ。私たちの生涯は死で終わらないということだ。そのことをあなたは信じるかとの問いかけである。

3.我は復活を信ず

・今日の聖書個所は、ドストエフスキーの小説「罪と罰」の主題として用いられていることでも有名だ。小説のあらすじは次の通りだ。貧しい学生のラスコリニコフは、自分のように才能のある若者が極貧にあえぎ、何の将来性もない金貸しの老婆が沢山金を持っているのは不合理であるという思い上がった気持ちから、その老婆を殺して金を奪う。だが、良心に責められ、盗んだお金を使うことも出来ないでいる内に、娼婦ソーニャと出会う。彼女の部屋で、ヨハネ福音書の11章「ラザロの復活」の箇所をソーニャに読んで貰う場面は印象的だ。11章17−27節、38−45節をソーニャは自分でも深く感動しながら「いかにも苦しそうに息をついで、一語一語はっきりと、力をこめて読み上げた」。これが転機となって、彼はソーニャに犯行を打ち明け、勧められて自首し、シベリヤの流刑地に送られる。ソーニャはシベリヤまで彼について行く。地の果てのような所で数年を過ごした後、復活祭過ぎのある朝、蒼白くやせた二人は、川のほとりでものも言わずに腰を下ろしていた。突然、彼は泣いてソーニャの膝を抱きしめる。彼女の無私の愛が、遂に彼を深く揺り動かしたのである。「二人の目には涙が浮かんでいた。・・・愛が彼らを復活させたのである」とドストエフスキーは書いている。

・愛が彼らを復活させた。イエスの愛は、ラザロのよみがえりを通して、悲しみに沈むマルタとマリアの姉妹を復活させた。イエスの愛は十字架で逃げ去った弟子たちの前に再び現れることを通して、弟子たちの信仰を復活させた。それはソーニャの信仰を通して殺人者ラスコリニコフを復活させた。ラスコリニコフは罪の赦しを確信したときに、生き返った。自分はもう一度人生を始めることを赦されていることを信じた。イエスは言われた「私は復活であり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。…このことを信じるか」。復活の信仰とは、どのような状況に置かれても、私たちはやり直すことが出来るという再生を信じる信仰だ。「このことを信じるか」。復活を愚かなこと、信じるに値しないこととして捨てることは簡単だ。しかし、捨てても何も生まれない。私たちは全てを知っているわけではない。もしかしたら、この復活の出来事の中に真理があるのではないかと求め始めた時、そこに何事かが起こる。ドストエフスキーは私たちにそう知らせているように思う。

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