江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年2月27日説教(マタイ16:13-28、自分の命を救おうとする者は失う)

投稿日:2005年2月27日 更新日:

1.イエスの道とペテロの道

・イエスはガリラヤでの伝道の働きを終えられ、エルサレムに向かう決意をされた。ガリラヤでは人々はイエスを温かく受入れてくれた。しかし、これから向かうエルサレムはイエスに反対する宗教指導者たちの居城だ。そこには受難が待っている。イエスは弟子たちにその覚悟をさせるために、ガリラヤを離れて北のピリポ・カイザリアに行かれた。その時の出来事を、私たちは受難節第三週の御言葉として読む。

・ピリポ・カイザリアでイエスは弟子たちに聞かれた「人々は私のことを何者だと言っているのか」。弟子たちは答えた「バプテスマのヨハネが生き返ったと言う者もあり、エリヤだと言う者もあり、エレミヤだと言う者もあります」。多くの人々はイエスを預言者として受入れていた。弟子たちの答えを聞いて、イエスは弟子たちに聞かれた「では、あなた方は私を何者だと言うのか」。イエスの問いかけに、ペテロが答えた「あなたはメシア、生ける神の子です」。

・その直後、イエスは思いがけないことを言われる「私はこれからエルサレムに行く。エルサレムで、人々は私を捕らえ、鞭打ち、十字架にかけるだろう。しかし、私は3日後に復活する」。ペテロは自分の耳を疑った。神からの救い主が殺される、そんなことがありえようか。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。人々はメシアが来れば、ユダヤが外国の支配から解放され、ダビデ王国の繁栄が回復されると期待していた。メシアとは油注がれた者、王であるはずだ、そのメシアが十字架で殺される。そんなことがあるわけはない。弟子たちは家や職を捨ててイエスに従って来た。この人に従っていけば、自分たちもひとかどの人間になれる、なりたいという願望があったからだ。その願望をイエスは否定しようとしている。ペテロは必死になってイエスを諌めた「主よ、とんでもないことです」。

・ここでペテロが先に為した信仰告白の意味が明らかになる。ペテロはイエスに対して「あなたこそメシアです」と告白したが、それはペテロの考えるメシアであった。「十字架で死ぬなどとんでもないことです」と諌めるペテロと信仰告白するペテロは同じ人物、同じ考えだ。ペテロが求めているのは、結局のところ、自分に利益を与えてくれるメシアなのだ。だから違うメシアが示されると受入れることが出来ない。イエスはペテロに激しい言葉を与えられた「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をしている」。直訳すると「私の後ろに引き下がれ」、私の後ろに、神の思いに従え。あなたは自分たちの事ばかり考え、神のことを思っていない。今、あなたの中にサタンがいる。そして、弟子たちに言われた「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」。

2.十字架を背負って従う

・「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」とイエスは言われた。ここには三つのことが言われている。最初は自分を捨てることだ。私たちは自分たちの思い、自分たちの理想を信仰の中にも持ち込む。神とは私たちを守り、繁栄をもたらしてくれる存在だと信じている。健康を望んだのに病気を与えられた時、裕福になることを望んだのに貧乏を与えられた時、私たちは抗議する、約束が違うではないか。ペテロの抗議と同じだ。栄光のメシアを望んだのに、苦難のメシアが示された。イエスは言われる「もし、神があなたの望む通りをなさる方であれば、それは神ではなく、あなたの操り人形、単なる偶像ではないのか。」。自分を捨てるとは、自分の思惑、自分の利益を捨てることだ。

・次の言葉は「十字架を背負って」である。ダビデ・ソロモンの時代にユダヤが栄華を極めたとしても、その後には国は分裂し、滅びた。私がダビデのような王になっても同じだ。地上の栄光は過ぎ去る。過ぎ去らないものは、私があなたがたを執り成すために死ぬという事実だ。私の死を通してあなた方の罪が購われる。十字架なしには、復活、救いはないのだ。

・最後の言葉は「従う」である。イエスは言われる「私が十字架で死ぬということは、弟子であるあなたがたにも死の危険が迫ることだ。命をかけて私についてきなさい」。事実、そこにいた弟子の大半はある者はユダヤ当局に、別の者はローマ帝国に殺されていった。しかし、死を前にしても教えを捨てない弟子たちの姿が人々の心を動かし、各地にキリスト信者が起こされて行った。

・イエスは「従いなさい」という言葉の後に、決定的な言葉を言われた。マタイ25:25の言葉である「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを得る」。不思議な、しかし心ひかれる言葉だ。今日の説教題でもある。

3.自分の命を救うために

・今日の招詞に詩篇49:18−21を選んだ。次のような言葉だ「死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず、名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。命のある間に、その魂が祝福され、幸福を人がたたえても、彼は父祖の列に帰り、永遠に光を見ることはない。人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。屠られる獣に等しい」。

・この詩篇は、人は必ず死に、死ぬ時には何も持っていけないと述べる。生きている時に獲得したこの世のものは、死の前に何の力も持たない。ルカ12章に「愚かな金持ち」の話がある。金持ちの畑が豊作で、倉にしまいきれないほどの収穫があった。金持ちは倉を建て増し、自分に言った「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えが出来た。食べたり、飲んだりして楽しもう」。その晩、神が彼の夢枕に立ち言われた「愚か者よ、今夜お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは誰の物になるのか」(ルカ12:16-21)。

・私たちはこの金持ちを笑えない。何故ならば、私たちが毎日していることはこの金持ちと同じだからだ。出来るだけ多くの幸福を手に入れようと、人生の99%をそのために費やしている。聖書が教えるのは、財産をいくら持っても、あるいはいかに人にほめられる存在になろうと、人生は安泰にはならないという事実だ。なぜならば命を支配しておられるのは、私たちではなく、神だからだ。イエスは言われた「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタイ16:26)。

・「自分を救いたい」、これが宗教を求める動機だ。この苦しみ、このつらさ、この不安、この絶望、そこからどうすれば救われるか。誰でも自分の命を救いたいと願い、そのためには何でもしようとする。しかし、自分で自分を救うことは出来ない。イエスは言われる「自分の命を救いたいと思う者はそれを失う」。パウロはこれを次のように言い換える「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(〓コリント7:10)。世の悲しみは死をもたらす。いつまでも自分の悲しみや苦しみだけに囚われていたら、それに負けて自分を滅ぼしてしまう。十字架を背負う時、悲しみが神の御心に適ったものになった時、そこに救いが生まれる。神が憐れんでくださるからだ。

・当時の十字架刑では、処刑される者が自分の十字架を負って刑場に行った。イエスは弟子たちに、私は十字架を背負っていくから、あなた方もついてきなさいと言われた。十字架を背負うとは、この十字架を避けないことだ。神から与えられた重荷、苦しい現実を負い続けることだ。親は子供が犯罪者となり世間が見捨てても、子を捨てない。その時、親は子の十字架を背負っている。婦人が夫の母親の下の世話をする。何故こんなことまでしなければいけないかと悩みながら行う。その時、妻は夫の十字架を背負っている。「この小さき者にしたことは私にしたことなのだ」と神は言って下さる(マタイ25:40)。人が自分のためではなく、神のために働く時、そこに救いが生まれる。

・どんなに苦しくとも、十字架を背負い続けなさい。十字架は重い。背負うのは大変だ。しかし、背負い続けた時、ある時からその荷が軽くなる。キリストが共に背負って下さるからだ。イエスは言われた「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。・・・私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」(マタイ 11:28-30)。この言葉が現実のものとなる。十字架の後には復活がある。重い荷を背負う者には喜びが与えられる。それを信じて担い続けなさいと言われている。

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