江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年2月20日説教(マタイ12:22-32、神の国は来ている)

投稿日:2005年2月20日 更新日:

1.悪霊につかれた人のいやし

・イエスはガリラヤ中を回って、病気の人々をいやされた。ある時、悪霊につかれて目が見えず、口の利けない人がイエスのもとに連れられて来た。イエスはその人を見て憐れみ、悪霊を追い出された。口の利けない人が話し始めた。人々は驚いて「この人はダビデの子ではないだろうか」と言い始めた。それを聞いたパリサイ人たちは「この人は救い主などではない。魔術の力を用いて悪霊を追い出しているだけだ」とイエスを非難し始めた。こうして、イエスとパリサイ人との間に、論争が為された。その箇所が、今日の聖書テキストである。

・イエスのもとへ連れて来られた人は「見えない、聞こえない、話せない」という三重の障害を持った人だった。当時、そのような障害は悪霊=サタンの業と考えられていた。病気や障害が治らないのは、神に呪われているためであって、その人は汚れた者、罪びととされた。イエスはそのような人々を憐れみ、自ら近づいていき、いやされた。口の利けない人が話し始める、人々はその奇跡を見て素朴に驚き、イエスの業の中に神の力を見た。だから人々は言った「この人はダビデの子、神から遣わされた救い主かもしれない」。病気をいやすとは悪霊を追い出すことであり、それは神にしか出来ない業だと思ったからだ。しかし、パリサイ人はイエスの中に民衆を惑わす危険性を見た。イエスの業は魔術であり、神の業ではない。自分たち指導者は、魔術師の業に迷わされる無知な民衆の目を開かなければいけない。彼らは言い始めた「イエスの力は悪霊から来るのだ。迷わされてはいけない」。

・イエスは反論された「あなたたちは、私のいやしの力がサタンから来ると言う。しかし、サタンがサタンを追い出せば、内輪もめだ。どんな国も内輪で争えば荒れ果ててしまう。サタンはそんなに愚かではない。私は神の力でサタンを追い出している。もし、神の力がサタンを追い出しているのであれば、神の国は既にあなたたちのところに来ているのだ」。病気や障害の人がいやされる。そのいやしを通じて、人々が神の呪いの下にあるのではなく、神の祝福の下にあることが明らかにされる。その神の業を何故素直に喜べないのか。口の利けない人が利けるようになり、目の見えない人の目が開けられることを、何故共に喜ばないのかとイエスは反論された。

・そして言われた「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」(マタイ12:31-32)。あなたたちが私を受入れず、私の悪口を言うのはかまわない。しかし、神が為されているこの救いの業を否定することは許されない。神は「人が人として生きる」ことが出来るように、今サタンと戦っておられる。その神の救いの業を妨害する者は赦されることは無い。あなたたちは神の救いを否定しているのだ。

2.傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない

・今日の招詞にイザヤ書42:2-3を選んだ。次のような言葉だ「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」。人々が求めていたメシアとは「剣を持ち、白馬に乗って、悪を懲らし、罪なき人を解放する」ような、政治的・軍事的指導者であった。ユダヤをローマの支配から解放し、ダビデ・ソロモン時代の栄華を回復することを人々は望んでいた。だから、イエスが病気や障害を持っている人々に近づき、彼らをいやし、神の国の福音を説かれる時、人々はイエスの業には驚いたが、イエスをメシアだとは思わなかった。

・しかし、聖書は「叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かず、傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことの無い」方こそメシアだと証言する。当時の人々は、重い病気や障害は神の呪いから来ると考えていた。だから病人や障害者は神に呪われた、悪霊につかれたものであり、罪人として、社会から排除された。人々は病気や障害に苦しむだけでなく、病気や障害を持つことによって村八分にされることに苦しんでいた。病気や障害者は町の中に入ることさえ、禁じられていた。「何故、私たちは社会から排斥されねばならないのか。何故、神は私たちにこのような冷たい仕打ちをされるのか、本当に神はおられるのか」。彼らは神の愛を疑い始めていた。困難の中で、信仰の火は消えようとしており、生きる意欲も折れようとしていた。彼らはまさに、傷ついた葦であり、くすぶる灯心であった。その彼らの病をいやし、障害を取り去ることこそが、まさに彼らを救う業、神の憐れみだった。だからイエスの為された業を、マタイはイザヤ書42章を引用して言う「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」(マタイ12:19-20)。イエスのいやしの業の中にこそ、神の救済の業が示されている。だから、その業を妨害するものは「聖霊を冒涜し、聖霊に言い逆らう」ことなのだとマタイは証言している。

3.弱いものを守る社会と排除する社会

・柳澤桂子という生命科学者がいる。彼女は朝日新聞に「宇宙の底で」というコラムを書いている。2月8日の主題は受精卵診断だった。重い筋ジストロフィーの子供を出産した夫婦が、第二子の妊娠でも同じ病気の恐れが強いと診断され、子供を中絶した。夫婦は今度こそ正常な子供を生みたいとして、受精卵診断を申請し、産婦人科学会がそれを承認したという記事だ。筋ジストロフィーは体中の筋肉が冒され、歩けなくなり、多くは30歳までに死ぬが、遺伝的に男性のみが発病する。従って受精卵を検査し、子供が男子ならば中絶、女子ならばこれを生もうとするのが、受精卵診断の目的である。彼女は言う「人間は多くの染色体の中から46本の染色体を与えられて生まれてくる。そして人類という集団の中には、必ずある頻度で障害や病気を持った子供が生まれてくる。人の遺伝子集団の中に入って来る病気の遺伝子を誰が受取るかはわからない。健常者はそれを受取ったのが自分でなかったことに感謝し、病気の遺伝子を受取った人に出来るだけのことをするのが義務であろう。どのような病気の子供も安心して生める社会こそが健全なのだ」と。

・彼女の言葉は、マタイ12章を考える上で重要だ。「生まれても苦しむだけの重い病気を背負う子供は生まれない方が幸せだ」とする考え方は、「障害や病気を持った人は、神に呪われた罪人だ」と弾劾するパリサイ人と共通する。パリサイ人、あるいは世の人々は、目の前に、病気や障害を持って苦しんでいる人がいても、気にかけないし、病気や障害がいやされても、喜ばない。イエスが怒られたのは、このような人々が自分たちこそ神に仕えていると思い、それで良しと考えていたことだ。イエスはいやしの業を通して言われる「神は苦しむ人に無関心ではない。神は、病気や障害を持つ人を見て『はらわたがねじれる』怒りを覚え、これを憐れまれる方だ。だから私に病をいやす力を与えられた」。

・イエスは自分のためには、奇跡を起こされない。荒野で断食して空腹になられても、石をパンに変えることをなさらない。しかし、大勢の人が食べるものもなく、空腹で行き倒れる危険性がある時には、パンで彼らを養われる。「十字架から降りてみよ、そうすれば信じよう」と罵る声にイエスは奇跡を行われない。しかし、弟の死を歎く姉妹のためには、ラザロを墓から呼び出される。イエスは「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」ために奇跡を行われる。神は苦しむ者を見捨てているのではなく、共に苦しんでおられることを示すために、奇跡を行われる。このような奇跡は今でもある。

・柳澤桂子さんは「いやされて生きる」と言う本の中で次のように述べておられる「医学に出来ることは少ししかない。目の前の病人に為すべきことをし尽くしてしまい、もはや何の手段も無くなった時に初めて、医師も看護婦も死に行く人と同じ地平に立てる。同じ無力な人間となって人間の限界に涙する、その時初めて、苦しむ人、死に行く人の孤独をいやす力が与えられる」。イエスとパリサイ人を分けるものは、相手の苦しみに対する痛みだ。イエスは悪霊追放を「争い」と言われた。いやしは戦いだ。いやす人は自分の身を削っていやす。私たちはイエスではない。だから、病をいやしたり、障害を回復させることは出来ないだろう。しかし、相手の痛みを共に痛むことは出来る。更に、私たちには力が与えられている。神の国は既に来ており、サタンは既に縛られていることを知っている。だから、私たちも戦うことが出来る。

・最後にイザヤ35:4-6を共に読みたい「心おののく人々に言え『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる』。そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」。柳澤桂子さんは何故このような言葉を言えるのか。彼女自身が原因不明の病のため、30年間も寝たきりの人だからだ。私たちは、人間としての限界を知る、弱さを知ることを通して、神からいやしの力をいただくのだ。

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