江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年11月6日説教(創世記15:1-18、約束を信じ続ける)

投稿日:2005年11月6日 更新日:

1.約束を信じきれない人

・今日、私たちは、教会創立を祝う礼拝を持つ。篠崎の地に新小岩教会の伝道所が立てられたのは36年前の1969年11月だ。その後、71年に土地が、73年には会堂が与えられ、73年11月3日に教会組織が為された。今日は伝道開始36年、教会組織32年の時を祝う。この間、いろいろなことがあった。私たちはこの間の出来事の意味を、聖書を通して神に問う。そして神が私たちに、これからどのような教会を目指して歩めと示しておられるかを聴きたい。今日、与えられた箇所は創世記15章だ。
・創世記は12章から具体的な人間の歴史を記し始める。その最初の人物が信仰の父と言われるアブラハムだ。アブラハムはカルデアのウルに住んでいたが、ある時、神の眼差しがこの人物の上に注がれた。「あなたは生まれ故郷、父の家を出て、私の示す地に行きなさい」(創世記12:1)。何故、アブラハムが選ばれたのか、誰にもわからない。アブラハムにもわからない。わからなくとも、アブラハムは神の言葉、内心から呼びかける声に従い、「行き先も知らないで出て行った」。そのアブラハムに対して神は祝福を約束される「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」。
・それから10年、いろいろな出来事が起こった。その出来事、出来事に神は介入され、繰り返しアブラハムに約束された「見えるかぎりの土地をすべて、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」(13:15-16)。約束は与えられた。しかし、実現していない。彼は既に80歳を超え、妻は70歳を超えたのに、まだ子はない。妻サラは不妊の女で子どもが出来なかった。いくら「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」と言われても、それが実現する見通しはなかった。古代の人々は死後の命を信じていない。死後が信じられないとしたら、命は子に託するしかない。子を与えられる、それは人々にとって命の継承を意味した。子を持つことは何よりも大きな祝福だった。しかし、アブラハムには子が与えられなかった。
・そのアブラハムに再度言葉が与えられる「恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」(15:1)。アブラハムは神に反論する「わが神、主よ。私に何をくださるというのですか。私には子供がありません」。妻は不妊で、彼も高齢になった。召命の時が75歳であるから、この時は80歳を超えていただろう。どうしていまさら子を持つ事が出来よう。子がいなければどのような祝福も無意味だ、神の約束は空手形だ、彼はそう思っている。だから、アブラハムの口からは感謝ではなく、恨みの言葉が出てくる「子がないのに、約束をいただいても何になるでしょう」。
・神はアブラハムを戸外に連れ出し、天を仰げと言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」。年老いて子どもがなく、果たされない約束に幻滅を感じている男に天を見よと言われる。アブラハムの信仰は揺るぎ始めていた。その彼が天を見た。天には、無数の、数え切れないほどの星が輝いている。アブラハムは思った「天に見える数限りない星を神は創られた。神は無から有を創造された。もう一度この方を信じて行こう、どのようにして子が与えられるかは知らないが、この方に従って行こう」。アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

2.信じ切れない人にしるしを与えられる神

・しばらくの時が流れた。神はまたアブラハムに呼びかけられる「私はあなたをカルデアのウルから導き出した主である。私はあなたにこの土地を与え、それを継がせる」(15:7)。果たされない約束の繰り返しだ。前に神を信じたアブラハムの信仰はまた揺らいでいる。信じた後も何も変わらないではないか。彼は神に保証を求める「わが神、主よ。この土地を私が継ぐことを、何によって知ることができましょうか」。神はこのアブラハムの不当な要求に応じられ、「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛」とを持ってくるように言われる。契約締結に必要な犠牲の動物を用意せよと言われたのだ。古代の契約は当事者双方が動物を二つに切り、その間をお互いが通り過ぎることによって結ばれた。もし、契約が履行されずに破棄された場合には、この動物のように二つに切り裂かれてもかまわないという意思を示すためであった。ヘブル語の契約を結ぶ=カラートには切るという意味もある。契約を破ったら殺されても良い、契約はそれほどの重みを持つ行為であった。
・アブラハムは動物を二つに切り裂き、待った。彼自身は通ろうとしない。アブラハムは緊張しながら、待った。待つ間にはげたかが動物の死体を狙って降りてくるが、アブラハムはこれを追い払う。太陽が沈み、アブラハムは疲れと緊張から、深い眠りに襲われた。その時、彼は主の声を聞いた。そして煙を吐く炉と燃えるたいまつが動物の間を通り過ぎるのを見た。神は一方的にアブラハムと契約を守る保証をされた。その相手は約束を信じられずにしるしを求める相手だ。契約=救いの約束は、私たち人間の側の資格や状況に全く依存しない、一方的な恵みである事を、神はこの出来事を通して示された。

3.この物語と私たち

・今日の招詞にヘブル11:13を選んだ。次のような言葉だ。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。
・篠崎キリスト教会の第一歩は、1969年11月6日の篠崎伝道所の第一回礼拝であった。当初は教会堂もなかったため、下篠崎町の篠崎文化館の一室を借りて礼拝が持たれた。その礼拝において、新小岩教会立石牧師が読まれたテキストがヘブル11章だった。伝道所を設立し、宣教を開始するにあたり、いろいろの困難がこれから来る、信仰が揺さぶられるような挫折や失望もあるだろう、その中で主の約束を信じて耐え忍べとの思いをヘブル書に託されたのではないかと思う。その後、宮地牧師が招聘され、新小岩教会から株分けとして17人が派遣されることになり、1971年6月27日に牧師就任・信徒派遣式が行われた。その式で読まれた聖書個所も同じくヘブル11章であった。ヘブル書は当教会にとって原点とも言うべき書である。
・ヘブル11章は8節からアブラハムの出来事を記す。アブラハムは神から、受け継ぐべき地に出て行けと召し出されると、「これに従い、行き先も知らずに出発した」(11:8)。何処に行くのか、知らずに出発する。自分の将来を神に委ねる、ここに信仰の原点がある。その約束の地において、彼は約束の成就を待った。しかし、いくら待っても約束は成就しない。アブラハムに子が与えられたのは彼が100歳、妻サラが90歳の時だ。最初の約束から25年が過ぎていた。神は何故アブラハムをこれほど待たせたのか。約束の子が肉による子孫ではなく、選びによる子孫である事を教えるために、神はサラの胎を長く閉じ、年老いるまで彼女に子を与えられなかった。その間、アブラハムとサラは何度も神の約束を疑った。疑いながらも、信じ続けた。そしてイサクが生まれ、そのイサクからヤコブが生まれ、ヤコブから12人の子が生まれ、その12人がイスラエルの12部族の祖になっていく。子孫が星の数ほどに増え始めた時にはアブラハムはこの世にはいない。
・13節から、これまでの記述が振り返られる。信仰の先人たちはみな、約束の成就を見なかった。アブラハムは約束の地に招かれたが、生前は寄留者、旅人に過ぎなかった。イスラエルが約束の地を領有するのは、それから400年後のモーセの時である。「あなたを大いなる国民の基にしよう」(創世記12:2)という約束はアブラハムの生前には実現しなかったが、後になって成就された。彼らはその約束の成就を見なかったが、その望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を遠くに望み見て喜んだとヘブル書は記す。
・しかし、事実はそうではない。ヘブル書はアブラハムを尊敬するあまり、彼を美化している。私たちが信仰の祖と呼ぶアブラハムは、創世記で見たとおり、何度も神の約束を疑ったのだ。その疑うアブラハムを神は選び続けられた。だから彼はその信仰を続けることが出来た。彼は、決して私たちの手本になるような品行方正の人ではない。それにもかかわらず、神は彼を見捨てず、導き続けられた。彼が信仰の父と呼ばれる人生を送ることが出来たのは、神が彼を見捨てられなかったからだ。
・私たちの教会は創立32年を迎えた。32年間の歩みの中に、反省すべき点、悔改めるべき点は多くある。多くの失敗を犯し、罪も犯した。教会の牧師や信徒の有様を見て、失望して教会を去っていった人もいた。しかし、神はアブラハムを見捨てられなかったように、私たちをも見捨てられない。それこそが今日、私たちが知らなければいけないことだ。神は愛する者を訓練される。アブラハムに何故すぐに世継ぎが与えられず、25年間も絶望と疑いの中で苦闘しなければならなかったのか。何故、全ての望みが途絶えたかに見えた時に始めて子が与えられたのか。祝福は私たちの業ではなく、神の業である事を知るためであった。私たちも今アブラハムと同じ苦闘の中にある。将来の展望が見えない。その私たちに、神は「天を仰げ」と言われる。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」。私たちもこの神に従っていこう。アブラハムに可能であったことは私たちにも可能なのだ。今私たちに必要なことは目の前に見える現実ではなく、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」ことだ。

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