江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年11月20日説教(サムエル記上16:1-13、約束を信じて生きる)

投稿日:2005年11月20日 更新日:

1.ダビデの選び

・今日、私たちはキリスト降誕に思いを寄せるために、ダビデ王の選びの記事をサムエル記を通じて読む。キリスト降誕に先立つ1000年前、ダビデがイスラエルの王として立てられた。そのダビデの家系の中から世界の王となられるキリストが生まれてくる。サムエル記は約束の地に入ったイスラエルが部族共同体から次第に王国に変わっていく歴史を描く。その歴史書に王ではなく、預言者の名前がつく。国を興すのは王ではなく、神であり、歴史=Historyとは神の(His)物語(Story)であるとの信仰だ。神は最初の王として若者サウルを立てられた。サウルは武力に優れ、指導者として諸国と戦い、国を盛んにしていく。即位当初は謙虚な若者であったが、国力が増し、栄えていく過程で、次第に独裁的に変わっていく。サウルは預言者サムエルから「聖別の油」を注がれて王となるが、やがてサムエルの言葉に従わなくなり、専制君主となっていった。ここにおいて神はサウルを見限られ、新しい王に油を注ぐように命じられる。その箇所が今日読むサムエル記上16章だ。
・サムエルは主の祝福がサウルを離れたことを知らされたが、まだサウルに執着する。サウルは彼が油を注いで王とした者であり、彼に代えて新しい王に油を注ぐことは、自分のこれまでの働きを否定することだったからだ。彼は過去に執着する。しかし、神は未来を見よと言われる。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。私は、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。私はその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした」(16:1)。サムエルはためらう。サウルはいまだ王であり、新しい王に油を注ぐことは彼の憎しみを買い、命の危険を伴う。サムエルはベツレヘムに行くが、町の長老たちも不安な面持ちでサムエルを迎える。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか」(16:4)。サウルは残虐な王であり、逆らう者は容赦なく殺す。預言者の来訪は町の人々を心配させた。
・サムエルは人々を安心させて、エッサイの家に向かい、エッサイに息子達を呼び集めるように命じた。最初に呼ばれたのが長男エリアブだった。エリアブは筋骨たくましく王にふさわしい立派な容貌だった。サムエルは彼こそその人だと思い、油を注ぐ準備をした。しかし主は彼ではないと言われた「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(16:7)。神はサムエルに言われた「お前はまたサウルそっくりの男を選ぼうとしている。我々が必要とするのは武力に優れたものではない。神に従う心だ。力は神から来るのだ」。やがて次男アビナダブが呼ばれるが、彼も否定された。三男が、四男が呼ばれるが彼らでもない。七人の誰もが選ばれない。サムエルは「あなたの息子はこれだけか」とエッサイに聞く。エッサイはもう一人の子がいるが、まだ子供のためこの席にはいないと答える。サムエルは彼を連れてくるように命じ、八番目の子が彼の前に来た。その時、サムエルは主の言葉を聞く「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ」(16:13)。こうしてダビデは聖別の油を注がれ、王として立てられていく。

2.選ばれた者のその後

・ダビデは聖別され、王として立たされた。しかし、日常生活は変わらない。彼は相変わらず羊飼いで、兄達に仕える弟だ。聖書は「その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった」(16:13)と記すが、生活は変わらない。ダビデも自分は本当に選ばれたのだろうかと疑問を持ったであろうが、主の導きを待った。やがてその時が来た。それが17章にあるペリシテ軍の勇者ゴリアトとの対決だった。当時のイスラエルにとって、ペリシテは大きな脅威だった。彼らは青銅や鉄を用いて武器を作り、重装備軍団でイスラエルを侵略していた。その先頭に立つのが武将ゴリアトで、イスラエル軍は彼を恐れ、誰も立ち向かおうとはしない。このゴリアトを倒すために立ち上がったのがダビデであった。彼は王に言う「私は羊の群れを襲う獅子も熊も倒して来ました。今、イスラエルを襲うペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。」(17:34-36)。ダビデはただ神の加護を武器に、単身ゴリアトに立ち向かい、石で彼を倒し、その首を切り落とす。
・これを契機に彼は出世していく。彼はサウル軍の武将になり、王の娘を与えられ、ペリシテとの戦いで連戦連勝する。民の人気は高まり、民は歌い始める「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」(18:7)。主の選びが成就する日も近いとダビデは思ったであろう。しかし、ダビデの人気はサウルを不安にし、ダビデを自分の競争者として殺そうとする。王の娘婿、近衛隊長までなったダビデが一転、王に追われる身となる。ダビデの行く所、王の軍隊が差し向けられ、たびたび命の危険に脅かされる。彼は思ったであろう「これが主の選びか。羊飼いでいた時は貧しくはあったが平和な日々であった。主に選ばれたばかりにこのような苦難に会う。選びとは何なのか」。彼の放浪時代は10年以上も続いた。
・ダビデはサウルに追われて逃亡生活を続けていた。ある時、ダビデと部下たちが潜んでいる洞窟にサウルが用足しをするために入ってきた。ダビデの部下は「王を殺しなさい。そうすればあなたが王だ」とダビデをそそのかす。ダビデもその気になり、剣を取って密かにサウルに近づく。しかし、彼は自分の罪に気づき、王の着物の端を切り取っただけで帰ってくる。その時、ダビデは言った「主が油を注がれた方に私が手をかけることを主はお許しにならない」(24:7)。例え相手がどのように残酷で自分を苦しめようと悪に悪を報いてはいけない。打たれても報復しない。出来事の最終的な支配者である神にお任せする。神が私を選んだのであれば自分は王に成るであろう。その方法は相手の命を奪うことではない。彼もまた神の選びの中にあるのだから。

3.約束を信じて生きる

・今日の招詞にヨハネ15:16を選んだ。つぎのような言葉だ「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命したのである」
・自分が神に選ばれたことを信じることはやさしい。しかし自分の敵であったり、仇であったりする相手も神に選ばれた者として遇していくのは難しい。しかし、神の選びを信じるとは、自分の命をかけてまでも、相手にある神の選びを貴んでいくことだ。ダビデは自らの手でサウルを退けず、神の時を待った。ダビデがイスラエルの王になったのはサウルの戦死後だった。彼は若くして神の選びを受け、王の婿、近衛隊長にまで上りながら、その後長い間逃亡生活を送った。長きにわたる試練がダビデを謙虚な王にした。国の領土が広がり、名君と評判になってもダビデは傲慢にはならなかった。王位は神の委託の元にあり、彼自身のものではないことを知っていたからだ。彼は弱さからいろいろの罪を犯すが、罪を問われた時は灰をかぶって悔い改めた。神はダビデを信頼し、愛し、彼の末から神の子イエスが生まれていく。今日私たちは讃美歌153番「エッサイの根より」を歌うが、「エッサイの根」とは、「エッサイの子ダビデ」の意味だ。キリスト・イエスはこのダビデの末として生まれられた。
・イエスは言われた「あなたが私を選んだのではなく、私があなたを選んだ」。私たちもまたダビデと同じ選びの中にある。ダビデと同じように聖別の油をバプテスマと言う形で受けた。それは私たちが「行って実を結び、その実が残るように」である。そして私たちはこの教会を形成した。しかし、教会の現実は「私たちは本当に選ばれたのだろうか」と疑う困難の中にある。私たちの生活も楽しい時より苦労の方が多いかもしれない。しかし、神がダビデを選ばれたように、私たちをも選ばれたことは、疑いようもない事実だ。私たちも、ダビデのように時を待とう。祝福を自分の手で作るようなことはせず、約束の実現を待とう。そのために今なすべき事をしよう。礼拝と祈祷会を守っていこう。神の言葉を聞き続けていこう。神の選びを信じ続けていこう。

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