江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年10月30日説教(創世記4:1-10、やり直すことを赦される神)

投稿日:2005年10月30日 更新日:

1.弟を殺したカイン

・先週、私たちは創世記2章からアダムとエバの物語を読んだ。アダムはエバが与えられた時、「これこそ私の骨の骨、肉の肉」と喜んだ。しかし、罪を犯して責任を問われるとアダムは一変する「あなたが与えてくれたあの女が食べろと言ったので食べました。私が悪いのではない。あの女が悪いのです」。人は最も親しい隣人とさえも共に生きることが出来ない存在であることが明らかになった。神は人の罪を問い、彼らをエデンの園から追われたが、その時、皮の衣を作って彼らに着せられた。罪を犯したにも関らず、神は人を見捨てず、人が生きることを赦されたことを先週見た。
・赦された人は妻を知り、妻は身ごもって子を産んだ。その子がカインであり、やがて弟アベルも生まれた。そのカインとアベルの物語が今日の主題である。エバは子が与えられた時に叫ぶ「私は主によって一人の男子を得た」。彼女の叫びは、子を与えられた母の喜びの叫びだ。「食べれば死ぬ」と言われた禁断の実を食べたのに、生きることを赦され、命を継承していくことを赦された。神への感謝がこの言葉の中にある。
・時が経ち、カインは土を耕す者に、アベルは羊を飼う者となった。収穫の時に、カインは土の実りを、アベルは羊の初子を献げ物として持ってきた。「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」(4:4-5)。何故、そうされたかについて聖書は何も語らない。世には理由のつかない不公平がある。仲の良い二人が同じ大学を受験し、片方が合格、片方が不合格になることもある。その時、不合格になった人は合格した人と友達であり続けることは出来ないだろう。何故ならば、友は隣人ではなく、競争者になったからだ。その人は友を妬み、神を恨むだろう。「何故私が呪われ、あの人は祝福されるのか」。カインは自分の献げ物が受け入れられず、アベルの献げ物が受け入れられた時、激しく怒って顔を伏せた。激しく怒る=感情が激して熱くなることだ。
・彼の怒りは神の選びの不公平に対する怒りだ。カインは顔を伏せて神の顔を見ようともしない。神はカインに問われる「どうして怒るのか」「どうして顔を上げないのか」。神はカインの応答を待たれる。信仰の偉人たちは神に正面から向き合った。エレミヤもダビデも神に激しく迫った「主よ、何故ですか。何故このようなことをされるのですか」。その反論に対して神は答えて下さる。神への怒りであれば神に問えばよい。しかし、カインは問わなかった。そのことによって、神に向くべき憤慨が弟アベルに向かう。カインは弟を野に誘い、彼を襲って殺した。神を信じない人の怒りは他者へと向かう。だから、神のない世界においては、争いは絶えない。
・主はカインに問われた「アベルはどこにいるのか」。カインは答える「知りません。私は弟の番人ではありません」。神は問われる「何と言うことをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる」。血が叫ぶ、アベルの血が大地に流れ、その血はカインを告発する。人にはわからなくとも、その罪は神の前には明らかだ。妬みは怒りとなり、怒りは人を死に導いた。カインが自分はないがしろにされたと怒った。この怒り、自分は不当に扱われているとの怒りは、私たちも経験した事のある怒りだ。そして、怒りは人を殺人にさえ追い込む。私たちもカインと同じ罪、殺人者になりかねない人に対する怒りという暗黒を内に秘めている。

2.罪を犯したものを捨てられない神

・カインの罪によりアベルの血が流れ、それが地を不毛にし、人の生存を脅かすようになる。神はカインに言われた「地はあなたの故に呪われる。土を耕しても、土はお前のために作物を生まない。お前は地上をさまようものになる」。大地は人の罪を通して呪われる。私たちもそのことを知っている。チエルノヴィリの原発事故によりウクライナの農地は汚染され、呪われた不毛の地になった。世界中で森林の乱伐や地下水の過剰汲み上げで大地の砂漠化が進行し、地は何も生まなくなった。地はあなたの故に呪われる、この状況は続いている。
・カインは罪の宣告を通して、犯した罪の重さを知った。彼は恐れおののく「私の罪は重くて負いきれません。私もまた殺されるでしょう」。自分も殺されるかもしれないと言う恐怖を通して、カインはアベルの苦しみを知り、神に懇願する、「助けてください」。神はそのようなカインの叫びさえ聞かれる。「カインを殺す者は七倍の復讐を受ける」、誰かがあなたを傷つけようとしても私が許さない。私はあなたを保護し、守る。神はカインにしるしをつけられた。神はカインの罪を不問にされるのではない。罪は罪として贖わなければならない。しかし、神は彼を見捨てられない。弟を殺した者にも保護のためのしるしをつけられる。どのような人でも、どのような罪を犯しても、神はその人を捨てられない。しるしはそのためのものだ。

3.しるしとしての十字架

・今日の招詞にマタイ18:21-22を選んだ。次のような言葉だ「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか』。イエスは言われた『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい』」。
・当時のユダヤ教では三度までは赦せと教えた。ペテロはその三度を七度まで拡大し、自分の寛容をイエスにほめてもらおうとしている。しかし、ペテロはまだ回数を数えている。イエスは七の七十倍赦せと回答される。七の七十倍とは無限に赦せということだ。何故ならば、あなたも神によって、無限に赦されているではないか。無限に赦されている者が何故人の過ちを赦せないのか。あなたが赦さないならば、神もまたあなたを赦されないだろう。「兄弟を憎む者は、兄弟を殺したのと同じだ」、怒りから殺人が生まれたのを私たちはカインの物語から見た。カインの怒り、不公平な取り扱いを受け、ないがしろにされて、人を殺したいほど憎んだことは、私たちにもある。私たちもまたカインの罪の中にある。神はそのカインが生きることを赦してくださった。私たちも同じ赦しの中にある。自分が赦されたのであれば、他者を赦せ、赦しのないところには真の人間関係は成立しないとここで言われている。
・神はカインを追放されたが、彼にしるしをつけて保護された。カインは生きることを赦され、妻を知り、彼女は子を産んだ。17節以下はカインの子孫についての記事だ。カインの子孫からレメクが生まれる。レメクは言う「私は傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならレメクのためには七十七倍」。七倍の復讐はカインを保護するためのものだった。レメクが主張する七十七倍の復讐は自己の力を誇示するためのものだ。カインは神の赦しを自覚して生きたが、レメクには赦されているとの思いはない。神の赦しを知らない者は、孤独と不安から自己の力に頼り、その結果、他者に対して敵対する。自己の力への信頼が競争と対抗を生む。この人間中心主義の流れが現代にも継続されている。
・アベルは殺されたが、アダムとエバはアベルに代わる新しい子、セトを与えられる。そして、セトの子は主の名を呼び始める(5:26)。人間の弱さを知り、それ故に主の名を呼び始める人々の群れが生まれた。この流れの中で、「七十七倍の復讐をやめ、七の七十倍の赦しを」との報復の禁止が生れていく。赦されたから赦していく、神中心主義の流れである。人間の歴史はこのカインの系図とアベルの系図の二つの流れの中で形成されてきた。カインの子孫たちは「人間に不可能なものはない。やればできる。出来ない者は滅びよ」という考えを形成して来た。アベルの子孫たちは「人間は弱い存在であり、神の赦しの下でしか生きることが出来ない」と知る。キリスト者は自分たちがアベルの子孫であることを自覚する。
・アベルは無惨にも殺された。アベル以降の人の歴史の中で、無数の人が何の罪もないのに殺され、血が流されていった。しかし、その人たちは無意味に死んだのではない。神はアベルに代わってセトを与えられ、セトの子供たちは主の御名を呼び始めた。私たちは何故聖書を読むのか。私たちの真実の姿、罪を知るためだ。私たちもまた、カインと同じ暗い怒りを持つ存在なのだ。そのカインさえも赦しの中にあり、殺されたアベルもセトという形で新たに生かされたことを知る時、私たちもまた赦されており、どのような状況の中でもやり直すことが出来る事を知る。私たちの信じる神は、やり直しを赦される神だ。だから私たちも他者のやり直しを受け入れる、他者の過ちを数えないのだ。

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