1.サマリアの女とイエス
・イラク戦争が泥沼化している。アメリカは武力でイラク全土を制圧したが、アメリカを侵略者とみなす人々はテロでこれに対抗し、この1年間、多くのイラク人とアメリカ人が殺された。反アメリカのテロはイラク国内だけでなく、スペインやトルコ、サウジアラビアにまで広がり始めて、今では西洋世界とアラブ世界の全面戦争の様相を呈している。憎しみの連鎖が広がっている。何故、このような出来事が起こるのか、どうすれば平和が取り戻せるのか、今日はこの問題を、聖書を通して学んで見たい。アメリカとイラク、あるいは異なる民族、異なる宗教間の敵意と憎悪はイエスの時代にもあった。ユダヤ人とサマリア人の間にあった対立である。
・パレスチナは南のユダヤ、中央のサマリア、北のガリラヤに分かれる。もともとサマリアはイスラエル王国の一部であったが、ソロモンが死んだ後、イスラエルはサマリアを中心とする北王国と、ユダヤを中心とする南王国に分かれた。北王国は紀元前721年にアッシリアに滅ぼされるが、その時、アッシリアの王はサマリアの支配階級を遠くの国に移住させ、代わりに異国の民を連れてきて住ませた。反乱を防止するための民族移住政策である。この結果、サマリアはイスラエル人と異邦人が交じり合う混血民族の地になり、民族の純粋性を尊ぶユダヤ人との間に対立が生じた。ユダヤ人はサマリア人と交わることを嫌い、サマリアの方でも、エルサレムに対抗してゲリジム山に神殿を立ててそこで礼拝するようになった。そのようなサマリアの地にユダヤ人であるイエスが行かれたとヨハネ福音書4章は書き始める。
・イエス一行がサマリアのシカル(旧約=シケム)という町に着かれた時、正午を回っていた。弟子たちは食べ物を買うために町に行き、イエスだけが井戸の側に座っておられた。そこに一人の女が水を汲みに来た。イエスはその女に「水を飲ませて下さい」と言われた。女は驚いた。ユダヤ人のイエスが敵対しているサマリア人の女に声をかけたからだ。
・女は言った「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(ヨハネ4:9)。イエスは答えられた「もしあなたが、私がだれであるか知っていたならば、あなたの方から頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(4:10)。女は更にびっくりして言った。「あなたは水を与えることが出来るというのですか。私たちの父祖ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身も、その子供たちもこの井戸から水を飲んだのです」。イエスは言われた「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。」。女は直ちに反応した「その水を私に下さい」。
・女は正午ごろに、町外れの井戸まで水を汲みに来ている。通常、水汲みの時間は涼しい朝方か、夕方だ。また、町の中にも井戸はあったのに、わざわざ町外れまで水を汲みに来ている。女は他の人たちと顔をあわせたくなかった。あるいは顔をあわせることが出来ない事情があった。水汲みは女にとって苦痛だった。だから女はイエスに「生ける水を下さい」と頼んだ。それに対し、イエスは「あなたの夫を呼んできなさい」と思いがけないことを言われた(4:16)。女は答える「私には夫はありません」。それに対してイエスは言われた「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」。この言葉に女は衝撃を受ける。彼女は過去に5人の男と結婚し、今では夫ではない男と同棲していた。そのために、彼女は身持ちの悪い女として、町の女性達からつまはじきにされ、他の人たちと顔をあわせないために、昼の暑い時に、遠い井戸まで水を汲みに来なければいけなかった。
2.イエスは何故このようなことを言われたのだろうか
・女は過去に5回の結婚に失敗し、今は内縁の夫と同棲している。当時の社会では女性から離婚を申し出ることは出来なかったので、彼女は離縁されたのであろう。それは彼女に子供が出来なかったためかもしれないし、彼女の不身持のためかもしれない。聖書はその理由を記さない。しかし、イエスは女と話すうちに女の最大の問題は、水の渇きではなく、魂の渇きであることに気づかれた。この女は男から男へ頼るべきものを求めていったが、どこにも本当の満たしを見出すことが出来なかった。そして今は過去の過ちにより、周りから疎外され、人目を避けて暮らしている。そのような生活に満たしはない。女が新しくやり直すためには、まず現実を見つめることが必要だ。だから女が最も触れてほしくない部分に、あえてイエスは触れられた。
・しかし、イエスの言葉の中には、女に対する非難や侮蔑はない。いつも差別されていた女はそのことを敏感に感じた。イエスの言葉を通して、女は自分の罪を知った。そして、全てを知っておられる神がいますことに気づかされた。何とか、この罪から清められたいと女は願った。しかし、女はすべての礼拝から排除されていた。エルサレムの礼拝は彼女がサマリア人ゆえに締め出されていた。ゲリジム山での礼拝は彼女の不身持のゆえに同族のサマリア人から参加を拒否されていた。彼女は魂の渇きをいやすための礼拝の場所がなかった。だから彼女は訴えた「私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」。イエスは答えられた「婦人よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。既に来ている」。あなたは礼拝から疎外されている。でも、私があなたに礼拝の場所を与えよう。あなたが、どこでも、霊とまことを持って礼拝すれば、神は答えてくださる。神はあなたを疎外されないと。
3.和解の福音
・今日の招詞にミカ書4:3を選んだ。次のような言葉だ。「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。
・「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」、この言葉はニューヨークの国連ビルの土台石に刻まれている言葉として有名だ。20世紀の前半は戦争の世紀だった。二次大戦が終わった時、人々はもう戦争は止めようとして国連を組織し、武器を捨てると言う決意で土台石にこの言葉を刻み込んだ。しかし、戦争は終わらなかったし、今でも続いている。それにも関わらず、私たちはこの御言葉を読む。何故なら、イエスが来られることによって、ユダヤ人とサマリア人の間の敵意の壁が崩れたことを知っているからだ。この婦人はイエスの言葉によって回心し、自分を疎外していたはずの町人の所に走っていって叫ぶ「私が行った事を全て言い当てた人がいます。この人こそ、メシアかもしれません」(4:29)。これまで隠したいと思っていた自分の恥を明るみに出して、女はイエスを証しした。サマリアの人々は女の証を聞いてイエスのもとに来て、イエスの話を聞いた。そして言った「私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。私たちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」(4:42)。ユダヤ人と敵対していたはずのサマリア人が、ユダヤ人であるイエスの言葉を聞き、救い主として認めた。そのきっかけになったのは、罪人と思われていた女の証だった。
・ここに二つの和解が出来た。ユダヤ人とサマリア人の和解、町の人と女の和解。何故和解が成立したのだろうか。ユダヤ人は通常、ユダヤからガリラヤへ向かう時、汚れた地に立ち入らないためサマリアを迂回して進む。イエスはあえてサマリアを通られた。ユダヤ人はサマリア人と出会っても挨拶しないのに、イエスはサマリアの女に声をかけられた。イエスほどの教師は、何十人、何百人を相手に説教されるのが当然であるのに、イエスは全力を傾けてただ一人の女に話された。神からの招きが先にあるのだ。そして、人が神からの招きを受入れた時に、憎しみを超えた世界が開ける。何故なら、神にとってはユダヤ人もサマリア人も共に愛しい子達なのだ。
・今日の世界はあまりにも二者択一の世界だ。「エルサレムとゲリジム山のどちらが本当の神殿であるのか」、「正義と民主主義のアメリカか、それともテロリストのアラブか」。このような問いかけからは平和は生まれない。私たちは聞いた「ゲリジム山の神殿とエルサレムの神殿、サマリア教とユダヤ教の敵意と憎悪の感情が乗り越えられ、まことの礼拝をする者たちが、霊とまことをもって父を礼拝する時が来る。いや、来ている」との言葉を。そのイエスの言葉がサマリアとユダヤの和解をもたらし、罪の女とサマリア人の和解をもたらした。人に敵意と憎悪を乗り越えさせるものは、人間の思いを超える神の言葉だ。何故なら、神がこの世を支配しておられるからだ。そして今、神は言われる「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とせよ」と。
・ミシェル・クオストと言うカトリックの司祭は言う「イエス・キリストはこの地上に降りられるために私たち一人一人を必要とされている。何故なら、キリストはこの地上にはもはや口と手を持っておらず、地上に降り立たれるためには、人間の口、人間の手を必要としておられるからだ」。この戦争を終わらせるためには、全てを知り、全てを支配しておられる神の言葉に耳を傾けることが必要だ。そして神は私たちに、そのための口となり、手となることを求めておられる。