1.イエスとピラト
・今週、私たちは受難週を迎える。それを記念して、9日金曜日には受難日礼拝を、11日日曜日にはイースター礼拝を持つ。この1週間は私たちにとって、1年で最も大事な時だ。今日の礼拝で、私たちはイエスの裁判について、受難日礼拝ではイエスの十字架を、イースター礼拝ではイエスの復活を、それぞれヨハネ福音書を通して学びたい。今日はその第1回目、ローマ総督ピラトによるイエスの裁判である。
・木曜日の深夜、イエスはエルサレム郊外のゲッセマネで捕らえられ、大祭司の屋敷に連行された。大祭司はイエスを「神を冒涜する者」として死刑宣告を行うが、ユダヤ人は死刑執行権を持たなかったため、彼らはイエスをローマ総督官邸に連れて行った。金曜日の明け方のことである。総督ピラトは彼らの所に出てきて「どういう罪でこの男を訴えるのか」と訊ねた(ヨハネ18:29)。ユダヤ人たちはイエスを「ローマに対する反逆者」として告発した。ピラトはユダヤ人たちの仲間内の争いで、イエスが捕らえられたことを知っていた。だから言った「お前達が自分の法に従って裁け」。ユダヤ人たちは反論した「私たちには死刑執行権がない」。やむなくピラトがイエスを裁くことになった。
・ピラトが最初に聞いたのは「お前はユダヤ人の王なのか」という問いだった。イエスが「そうだ」と答えれば、彼はローマへ反逆者として有罪になる。この後も、ピラトがイエスに繰り返し尋ねるのは「あなたはユダヤの王であるか」の一点だけだった。そのピラトの問いに対してイエスは逆に問われる「あなたは自分の考えでそう言うのか、それとも他の人の考えか」。ピラトの考えであれば、彼はイエスをローマに反逆する政治的王と考えているわけであり、イエスはそうではないから、これを否定される。他方、ユダヤ人の言う意味での王であれば、それはメシヤ=救い主という意味であり、イエスはそうであるから、これを肯定される。イエスはその意味をピラトに問い返された。しかし、ピラトはそのような問題には関心はない。関心があるのは、イエスがローマに反逆しているかどうかだ。だから訊ねる「あなたは何をしたのか」(18:35)。
・イエスにとって自分が神から遣わされた者であることを証しすることは大事なことだった。故にイエスは言われた「私は王である。しかし、私の国はこの世には属していない」(18:36)。イエスは神の国のことを話され、ピラトは地の国のことを考えている。イエスとピラト、それぞれが考える国が異なる故に、話がかみ合わない。イエスは地の国の王ではないが、神の国の王である。神の国は見えない、神の国はこの世のものではない。しかし、この世に存在している。私たちは、日本というこの世の国に属し、同時に神の国にも属している。二つの国は秩序を異にするから、私たちは日本を愛し、日本のために働きながら、同時に神の国を愛し、神の国のために働くことが出来る。「神のものは神に、カイザルのものはカイザルに」(マルコ12:17)という聖書の言葉はこれを意味する。
・しかし、二つの国の原理が衝突する時がある。その時、私たちは神の国の住民として、地の国と戦う。今、イエスが置かれている状況がそうだ。地の国の代理人であるピラトが「あなたは王か」と聞けば、イエスは敢然として「私は王である」と答えられる。たとえ、その答えが死を招くとしても、イエスは「その通りだ」と答えられる。
2.真理で形成される神の国
・ピラトは確認する「それでは王なのだな」(18:37)。イエスは答えられる「その通り、私は王である」。イエスは真理の国の王である。イエスは「真理について証をするために生まれ、そのために世に来た」。イエスは父なる神から遣わされて世に来た。そして、父がどのような方であるかを語った。イエスの言われる真理とは神のことだ。ローマは力によりその帝国を拡大していく。イエスは真理を証しすることを通して、神の国を広げていく。ピラトには理解できない。そして彼は尋ねる「真理とは何か」。
・ピラトは、何が真理かについて関心はない。彼の関心は誰が支配者であり、誰が力を持っているかだ。ローマ総督として、彼の目はローマを向いている。従って、ここで本国の不興を買うような面倒を起こしたくない。だから、彼はユダヤ人たちを怒らせるようなことはしない。他方、行政官として、彼はイエスが処罰すべき反逆者でないことはわかった。だから、イエスを釈放しようとする。この二つの欲求を彼は調和させようと試みる。ピラトはユダヤ人たちのところへ行き「イエスは無罪だ。釈放しよう」と提案する。しかし、ユダヤ人たちは納得せず「イエスを死刑にしろ」と要求する。彼らはピラトを脅して言う「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いている」(19:12)。ピラトは正義よりも妥協を選び、ユダヤ人の要求するように、バラバを釈放した。
・バラバは「都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた」(ルカ23:19)、彼はローマ抵抗運動の指導者であり、民衆にとっては英雄的存在であった。バラバ=暴行の人、流血の人、目的のためには手段を選ばない者、民衆はいつの時代でも、バラバを選ぶ。バラバの目指すものは目に見えるからだ。他方、イエスの目指すものは目に見えない。このバラバを選択したことが、ユダヤ亡国の始まりになった。この後、ユダヤ人たちは、ローマへの抵抗運動を強め、終にはローマに対する独立戦争を始め、負けて国は滅びる。紀元70年、イエスの十字架の40年後だ。
3.真理とは何か
・今日の招詞にヨハネ8:31−32を選んだ。次のような言葉だ。
「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『私の言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする』」。
・ユダヤ人たちは真理を知ろうとしなかった。だから、彼らはイエスを捨てて、バラバを選んだ。その結果、国を滅ぼした。ピラトも真理を知らず、また関心も示さなかった。彼は「真理とは何か」と聞きながら、その答えを聞こうともせず、部屋を出て行った。ピラトはやがて失脚し、自殺したと伝承は伝える。真理を聞こうとしない者は滅びた。
・真理こそ、国を造り、社会を造り、私たちの人生を完成させる力だ。ローマは軍隊と法律によって、当時の世界を征服し、未曾有宇の世界帝国を建設した。しかし、外敵の侵入と内部の堕落により、程なく滅ぶ。キリスト教はイエスの死後、弟子達が真理を証しする伝道を始め、やがて全世界に普及していく。権力による征服は華々しいが一時的であり、真理による伝道は地味であるが、永続的である。イエスに勝ったかに見えたローマが、やがてイエスの弟子たちにより滅ぼされていく。正に、人間の歴史の中に、神は働いておられるのだ。
・今日、多くの人々は、ユダヤ人のように、あるいはピラトのように真理に関心を示さない。真理を知っても、収入が増えるわけではないし、地位が上がるわけではない。逆に真理を知ることによって、この世の悪が,地の国の本当の姿が見えてきて生き苦しくなる。しかし、歴史が示すことは、真理は最終的に勝つということだ。京都の養鶏場に鳥インフルエンザが発生した時、養鶏場の経営者はこれを隠そうとした。やがてそれが発覚し、会社は倒産し、両親は自殺し、経営者も事故隠匿の罪で逮捕された。三菱自動車の経営者も同じだ。車輪と車体をつなぐハブが設計ミスにより破損し、トラックの車輪が脱落する事故を続出した。会社側はハブの設計ミスを知りながらこれを隠し、整備不良のためとして使用者側の過失を主張した。やがて事実が明らかになり、三菱自動車は大きな損失をこうむり、会社存亡の危機に立たされている。
・何故、ユダヤが滅び、何故ピラトが滅んだのかを私たちは改めて知る必要がある。彼らは、真理を知ろうとしなかったから滅びた。真理、即ち、神を知ることによって、我々は世から自由になる。過ぎ去るものと、過ぎ去らないもの、大事なものとそうでないものが見えてくる。真理は私たちを自由にする。神の言葉が、私たちを文字通り生かすのだ。