江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年3月21日説教(ヨハネ12:1-8、最上の物を献げる)

投稿日:2004年3月21日 更新日:

1.ベタニヤのマリヤの献げ物

・イエスがエルサレム郊外のベタニヤ村で食事の席についておられた時、一人の婦人が高価な香油を持ってきて、イエスに注いだ。過越祭りの6日前、土曜日の出来事である(ヨハネ12:1)。翌日の日曜日にはイエスはエルサレムに入られ、金曜日には十字架で死なれた。この出来事は「ナルドの香油」、また「ベタニヤの油注ぎ」として四つの福音書全てに記事がある。弟子たちにとって忘れがたい出来事だった。教会はこの出来事がイエスの葬りの準備としてなされたと理解し、受難節の時にこの箇所を読む。受難節第4主日の今日、この物語を通して、イエスの受難について考えてみたい。

・ベタニヤ村にはマルタ、マリヤの姉妹と、その兄弟ラザロが住んでおり、イエスは何度もこの家を訪れておられた。この度はイエスを歓迎する食事会が開かれ、イエスと弟子たちは食事の席についていた。マルタは給仕のために忙しき働き、ラザロはイエスと同じ食卓についていた。そこに、もう一人の姉妹マリヤがナルドの香油を持って部屋に入り、香油をイエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りで一杯になった。

・人々はマリヤの行為に唖然とした。何故ならば、その香油は非常に高価だったからだ。香油の価格は300デナリオンもした(12:5)。1デナリオンが労働者一日分の賃金とされているから、300デナリオンは1年分の給与に相当する。今日のお金で見れば、数十万円あるいは数百万円の値段がしたのかも知れない。ナルドはヒマラヤで取れる植物の根で、それをオリーブ油に浸して香油を作る。ソロモンの時代から貴重な香油として珍重され、少量を頭に塗ったり、死者の埋葬の時に体に塗ったりしていた。そういう貴重なものを1リトラ、300グラムも足に注ぐ、何と言う浪費、弟子たちはこれを見て憤慨した。弟子の一人であるイスカリオテのユダは言った「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(12:5)。このユダは後にイエスを銀貨30枚で祭司長たちに売った。銀貨30枚とは、120デナリオンであり、マリヤが捧げた物の半値でイエスを売り渡したことになる。ユダは香油をイエスに注ぐ行為に何の意味も見出せなかったのだ。

・イエスは弟子たちに言われた「この人のするままにさせておきなさい。私の葬りの日のために、それを取って置いたのだから」(12:7)。この物語を読む時、私たちが不思議に思うのは、何故マリヤはこのような行為をしたのか、またイエスはマリヤのこの行為を何故喜ばれたのだろうかということだ。

2.神の前にひれ伏す行為としての献げ物

・今日の招詞にヨハネ11:25−26を選んだ。次のような言葉だ。

「イエスは言われた。『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」

・マルタとマリヤの兄弟であるラザロが重い病気になった。姉妹はイエスのもとに人を送って「あなたの愛しておられたラザロが重い病気で死にそうです。すぐ来て、いやして下さい」と頼んだ。当時イエスはヨルダン川の向こう岸におられたが、多くの人々が病のいやしを求めてイエスの元に来ており、すぐには動けず、ベタニヤに向かわれたのは、使いをもらって3日目であった。イエスがベタニヤに着かれた時、ラザロは既に死んで4日経っていた。マルタはイエスに言った「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(11:21)。もっと早く来てくだされば、弟は死なずに済んだのにと彼女は言った。

・そのマルタに対して語られた言葉が今日の招詞だ。「信じる者は死んでも生きる」、ラザロは死んだが、それは神の業が現れるためだ、彼はよみがえるだろうとイエスは言われた。マルタにはその意味が理解できない。マルタは妹のマリヤを呼んだ。マリヤはイエスの足元にひれ伏し、泣きながら言った「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」。イエスはマリヤの涙を見て深く憐れまれ、ラザロの葬られていた墓に行き、言われた「ラザロ、出てきなさい」(12:43)。すると、死んで墓に葬られていたラザロが手と足を布で巻かれたままで出てきた。死んだラザロが今、復活した。マリヤはその出来事を目の前に見た。マリヤはイエスの涙を見て、イエスがどれほど弟ラザロを愛されていたかを知った。そしてイエスの声に応じて、死んだ弟が墓の中から出てくるのを見た。彼女は為された業の大きさに打たれ、イエスの前に跪いた。

・ラザロは回復した。マルタとマリヤの姉妹は感謝の食事会を催すことになり、イエスを招いた。マルタはイエスのために料理を作り、給仕して仕えた。マリヤは自分の持っている最上の物をイエスにささげようと決心した。そして、当日が来た。

3.私たちは何を捧げようか

・この時、祭司長たちはイエスを逮捕しようとして「イエスの居所がわかれば届け出よ」との命令を発していた。事態は緊迫していた。イエスはユダヤ当局に捕らえられる日が遠くないことを予感され、張り詰めた心で姉妹の家に行かれた。しかし、弟子たちにはその危機感はなく、イエスの気持ちがわからない。やがて死ぬという切迫感の中で心を痛めておられるイエス、それを察しようともしない弟子たち、マリヤは愛する者の直感で、イエスがただならぬ状況下にあることを感じた。この方は死を覚悟されている。私はこの方に何が出来るのだろう。マリヤは自分にとって最も大事なナルドの香油を持ってきて、イエスの足に塗った。

・彼女は自分の嫁入り道具としてお金をため、香油を少しずつ購入したのであろう。その香油が1リトラもたまっていた。彼女にとってそれは自分の幸せを約束する大事なものであった。しかし今、彼女はそれを惜しげなくイエスの足に注ぎ、髪の毛で拭いた。マリヤの頭の中には社会もなく、貧民もなかった。弟ラザロのために涙を流し、彼を死からよみがえらせてくれたイエスに感謝の思いを伝えたい、それだけだった。夢中で、前後を考えないで、香油を注ぎ、拭いた。香油がどれほど高価であろうと、マリヤは眼中になかった。

・日本では子供のための臓器移植は許されていない。そのため、重い先天性の臓器疾患を持つ子供の親は、アメリカに行って臓器移植を受けようとする。臓器移植には数千万円のお金が必要だ。親達は子供の命を救うためであれば、借金をしてでもお金を工面しようとする。死を前にすれば誰でもそうする。マリヤも、イエスの死を前に300デナリオンのお金が惜しいわけはない。彼女は持っている物全てを捧げた。

・ユダヤにおいて香油を塗ることは二つのことを意味した。一つは王の任職のとき、その頭に油を塗る。ヘブル語のメシヤ=救い主とは「油注がれた者」という意味である。また、油は死者の埋葬にも用いられた。人は死ぬと、体に香油を塗られ、布で巻いて埋葬された。イエスは、マリヤの懸命な行為を、自分を王として任職し、死ぬ準備として油を塗る、父なる神からの贈り物として受けた。これがイエスの王としての任職式だった。だからイエスは言われた「この人のするままにさせておきなさい。私の葬りの日のために、それを取って置いたのだから」(12:7)。そして、自分が死を決意していることを知り、埋葬の準備をしてくれたマリヤに感謝された「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない」(12:8)。残された時間は少ない、マリヤはこの時間を満たしてくれた、マリヤに感謝したい。イエスはそう言われたのだ。

・信仰とは命がけの行為だ。そこには生死がかかっている。子供の命を救うためには何でもするのに、何故自分の命を救おうとしないのか。命についてひたむきであれと、この物語は問いかけている。マリヤは自分の持つ最上のものを捧げた。私たちは何を捧げようか。何が最上の献げ物なのか。パウロは言う「兄弟たち、・・・自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12:1)。私たちは自分の生涯を最上の献げ物として神に捧げたいと願う。

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