1.ペテロに対する三度の問いかけ
・イエスはガリラヤで弟子たちに現れ、共に食事をされた。食事の後で、イエスは三度にわたってペテロに聞かれた「あなたは私を愛するか」。ペテロはイエスが三度も聞かれたので、悲しくなって答えた「主よ、あなたは何もかもご存知です」。ペテロはイエスの裁判の時に、「イエスなど知らない」と三度イエスを裏切った。だから三度も「愛するか」と確認された時、ペテロは下を向いた「あなたは私が弱く、罪を犯し続ける人間であることを知っておられます。私はあなたの前に何の申し開きも出来ません。ただ、あなたの赦しを願うだけです」。そのペテロに対してイエスは言われた「私の羊を飼いなさい」。こうしてイエスはペテロに後のことを委ねられた。イエスはペテロが弟子の筆頭であり、その信仰が立派だから、ペテロに教会を委ねられたのではなく、ペテロが自分は罪人であることを深く自覚し、悔い改めたからペテロに教会を託された。今日は、このヨハネ21章後半の記事を通して、「罪と赦し」について共に学びたい。
・イエスは十字架につけられる前に弟子たちに言われた「私はこれから十字架につく。あなた方は私の行く所についてくることは出来ない」(ヨハネ13:33)。その言葉に対して、ペテロは答えた「主よ、何故ついていけないのですか。あなたのためなら命を捨てます」。そのペテロに対してイエスは答えられた「鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう」(同13:38)。イエスの預言通りに、ペテロは自分が捕らえられそうになった時、三度イエスを否認した。イエスを裏切ったことはペテロの心の中に重い罪責として残った。その罪責を取り除くため、イエスはペテロのもとを訪れられ、「私を愛するか」と聞かれた。
・第一の問いは「この人たち以上に私を愛するか」である。この人たち以上に、他の弟子たち以上に私を愛するかとの問いである。ペテロは自信を持って、答えることが出来ない。今のペテロは「あなたのためなら命を捨てます」と大言壮語したペテロではなく、罪を知ったペテロだからだ。二度目にイエスは問いを変えられる「私を愛しているか」。今度は「他の人たち以上に」とは問われていない。イエスは三度目に問われた「私を愛しているか」。三度問われたことで、ペテロはイエスを三度裏切ったことを改めて思い起こされ、悲しくなった。この悲しみはペテロにとって良いことだった。悲しみことによって、彼が「イエスを知らない」と言ったときのイエスの悲しみを思い知る機会になったからだ。ペテロは答えた「あなたは何もかもご存知です。私があなたを裏切ったことを、これからも裏切るかもしれないことを」。そのペテロにイエスは言われた「私の羊を飼いなさい」。
・イエスはペテロに「あなたは私を裏切った」とは言われなかった。「あなたはそれでも私の弟子か」とも言われなかった。ペテロが自分の過ちを深く悔いていることを知っておられたからだ。罪を悔いている者に与えられる言葉は「赦す」である。イエスはペテロを赦すために、ガリラヤに来られた。「私を愛するか」という言葉には「私はあなたを愛している」との意味が込められている。「私の羊を飼いなさい」という言葉には、「あなたを赦し、後のことは頼む」という委託が込められている。この赦しと委託がペテロを変えた。
2.従いなさい
・ペテロに教会を委託された後で、イエスは言われた「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(ヨハネ21:18)。他の人に帯を締められ=捕縛・逮捕されて、両手を伸ばして=十字架に両手をはりつけにされて、つまりペテロが殉教の中で死ぬであろうことを預言された。ペテロはこの後、使徒として宣教するが、30年後の紀元63年、ローマ皇帝ネロにより捕らえられ、十字架で殺された。それを暗示するのが、21:19の言葉である「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」。しかし、彼にはまだ人間としての迷いがある。彼は聞いた「私が殉教するのはかまいません。でも、ここにいるヨハネはどうなるのですか」(21:21)。ヨハネも殉教するのかどうかをペテロは聞いている。ペテロはまだ、殉教の覚悟が出来ていないのだ。しかし、イエスは言われる「ヨハネがどうなるかは父の御心次第であり、あなたには関係がないではないか。あなたは私に従いなさい」。
・イエスの弟子になるとは、イエスに従うことだ。従う時、ペテロのように茨の道を歩む人もあるかもしれない。他の人は別な道を歩む。ヨハネは、その後エペソに行き、そこに教会を設立し、天寿をまっとうして死んだと言われている。そのヨハネの弟子の一人が、師の言葉を元に福音書を書いた。それが、いま読んでいるヨハネ福音書だと言われている。ある人はキリストのために死ぬことを通して神の栄光を現し、別の人はキリストを証する福音書を書くことで神の業を行う。人はそれぞれの賜物と使命を与えられ、それぞれの場で神の栄光を現す。「それで良いではないか、あなたは私に従いなさい」とイエスは言われる。
3.赦しの上に立てられた教会
・今日の招詞にヨハネ8:10−11を選んだ。次のような言葉だ。「イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか』。女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」。
・人々はイエスのもとに、姦通の現場で捕らえられた女を連れてきた。イエスを試し、わなにかけるためだ。イエスは言われた「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(8:7)。誰も自分が罪を犯したことがないと言い切れない、みんながいなくなった。イエスは女に言われた「あなたは罪を犯したが、そのことで十分苦しんだ。もう良い。あなたの罪は赦された。もう罪を犯さないように」。誰も女を人間として遇せず、罪びととして対処した。その時、女の心には恨みはあっても悔い改めはなかった。しかし、イエスはこの女の苦しみを見られた。女は自らの罪と恥に震えていた。十分に苦しんだ者は赦される。イエスはこの婦人を赦された。この出会いが婦人を変えた。この婦人が後にイエスの十字架に最後まで従い、復活のイエスに出会うことになったマグダラのマリアではないかと言われている。
・キリストの愛は、罪を口に出さず、沈黙の内にそれを克服した。その結果、姦淫の女も過ちを犯したペテロも新しい生に復帰した。私たちの社会では、罪を犯した人は刑務所に収監される。しかし、刑務所においては、本当の悔い改めは生じない。そこでは人は犯罪者として扱われ、いつまでもその罪を問われ続ける。出所すれば、元犯罪者としての烙印を押され、過去を隠して生きなければいけない。私たちの社会には赦しと復帰がない。だから再生もない。しかし、イエスは「私はあなたを愛している。あなたは私を愛するか」と問われる。イエスは挫折した者を捨てられない。むしろ挫折によって自分の無力を知った者にこそ、神の業を託される。この赦しと委託から、悔い改めが生じ、その悔い改めが罪責感からの立ち直りをもたらす。婦人は「私もあなたを罰しない」というイエスの言葉で過去の罪から立ち上がり、「もう罪を犯してはいけない」という言葉からイエスに従うものとなった。ペテロも「私の羊を飼いなさい」という言葉により赦され、「従いなさい」という言葉により、新しい役割を担って立ち上がった。
・全ての人は罪人であり、その中に弱さと愚かさを持つ。自分がそういう存在であることを知って泣き、それでも神は受け容れてくださることを知って、人は新しく生きるものになる。キリストの愛は、もう一度やり直すことを認める愛だ。挫折して、自分の限界を知ることは良いことだ。パウロが言うように「世の悲しみは死をもたらし、神の御心にそう悲しみは救いをもたらす」(〓コリント7:10)。教会はそのような、失敗者が集まる場だ。教会は罪の赦しと委託の上に立てられている。赦されたのだから、赦しなさい。赦しのない社会の中にあって、私たちは赦しあえる共同体を形成する。「裁くのではなく、愛しなさい」とイエスは今ここで言われている。