江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年10月10日説教(2コリント5:1-10、天の着物を着る)

投稿日:2004年10月10日 更新日:

1.生きること、死ぬこと

・人は死んだらどうなるのか、どこに行くのかは、昔から多くの人が考えてきた。考えてきたが、誰にもわからない。どうなるのかわからないから、死は不安で怖い。怖いから考えまいとして生きている。しかし、死がいかに怖くとも、解決しなければいけない問題だ。人間は必ず死ぬからだ。この死をどう捉えるかで、私たちの行き方も変わってくる。パウロは〓コリント5章でこの問題を彼の信仰から論じる。

・パウロがコリント教会への手紙で、この問題を言及するのは、コリント教会の特殊問題があった。ギリシャ人は、人間の本質は霊であり、死んで肉体は滅んでも霊は天国に戻ると考えていた。だから死は肉体からの霊の解放であり、望ましいことだ。故にこの世を生きることは大した重要性を持たず、どのように生きても良いと考えた。それに対してパウロは反論する。それが〓コリント5章だ。

・パウロは言う「私たちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」(〓コリント5:1)。パウロはこの世と来世を比較して、その住まいをテントに住むのと家に住むのとの違いだと述べる。テント住まいは暫定的なものであり、折りたたんで持ち運べるような住まいである。私たちの肉の体は、いろいろな故障や障害を抱えながら、やがて耐久年数が尽きると壊れていくテントのようなものだ。そこだけを見ると、死は腐食と破壊の行為だ。目に見えるものだけしか信じられない人にとって、死は恐怖であり、終わりだ。しかし、神を知る人は死の先に永遠の住まいがあることを見ることが出来る。神を知る人にとって、死とは仮住まいから永住の家に移るようなものだとパウロは言う。

・では早くこの仮住まいの家から、本当の建物に移るべきなのか。違うとパウロは言う「私たちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」(5:2)。幕屋、肉の体があることによって、人生は重荷を担って苦しみもだえるものになる。男である、女である。体が強い、弱い。能力がある、ない。私たちはいろいろな制約の中で生き、ある時は他者を妬ましく思い、ある時は自分に絶望し、そのようなうめきの中で苦しみもだえながら、この地上の生活を送る。命を絶つことによってこの重荷から解放されたいと願うこともある。しかし、パウロは言う「幕屋の上に天の住みかを着る」、今の人生が苦しいからこの幕屋を捨てて天の住みかを着るのではなく、この地上の人生を貫いて天に行くのだと言う。

・このもだえ苦しみの中で、死が命に飲み込まれてしまうとパウロは言う(5:4)。地上の着物を脱ぎ捨てて、天の着物を着るのではなく、このもだえ苦しみの上に霊の体をいただいた時に、死は命に変わっていくとパウロは言う。

2.パウロは何を言っているのか

・今日の招詞に〓コリント5:17を選んだ。次のような言葉だ。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。パウロの言葉は難しい。何を言っているのか、わからない。しかし人の具体的な人生の中で考えてみると、パウロの言葉の真実性が見えてくる。

・今日、共に見たいのは、田原米子という人の人生だ。田原米子さんの母親は彼女が14歳の時に脳溢血で倒れ、意識を失ったまま、死んでいった。それ以来、彼女は人生が空しくなり、生きることの意味がわからなくなった。彼女は言う「何故人は生きるのか。結婚して子供を生んで、年老いて何も残すことなく死んで行く。そんな人生に何の意味があるのか」。彼女は多くの人々にその問いかけをしたが、誰も彼女を満足させる返事が出来なかった。お酒を飲み、遊んでも、心の空しさは満たされない。ある日、一日も早く母の元に行きたいと願った彼女は、新宿駅のホームから身を投げてしまう。高校生の時だった。幸か不幸か彼女は死ななかった。しかし、両足と片腕は切断、右手の三本を残すだけの体となった。

・死に損なった。手も足も無い不具の体になって生き残った。手も足も無いから、這うこともいざることも出来ない。トイレにも行けない。歯も磨けない。こんな体を人の目にさらされるのがたまらない。彼女は二回目の自殺を考え始め、悶々とした毎日を送っていた。そんなある日、高校の先生の紹介で、キリスト教の宣教師が通訳の日本人青年を連れて、彼女の病室を見舞いに訪れた。その宣教師は手作りのお菓子やパンフレットを置いていくだけで、信仰を売り込むような態度は見せなかった。しかし、田原さんは、人の弱みに付け込んで自分たちの勢力を拡張しようとしているのに違いないと思って気を許さなかった。けれども、この二人の明るさ、温かさに、抵抗しつつも次第に心を開き始めていた。ある時、その宣教師が置いて言った聖書をめくっていたら、〓コリント5:17の言葉に出会った。今日の招詞だ。「旧いものは過ぎ去った」。その言葉が彼女を惹きつけた。そしてページをめくった。その時、指が二本あればページがめくれることに気づいた。二本あれば良いのに、自分には三本も残されている。この指があれば本を読める。看護婦に頼んで鉛筆を持ってきてもらった。指が三本あれば字が書ける。二十本の指があったのに十七本が無くなったと思うとき、残った三本の指は呪いになる。過去にこだわる時、そこからは何も生まれない。しかし、三本の指があれば、本もめくれるし、字も書ける。三本の指が残されたことを感謝する時、人生は変わってくる。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」事を彼女は知った。

・彼女は言う「その時、神様から『死ぬのはまだ早い。もうちょっとそっちにいなさい。そっちでやることがあるのだから、自分の足元からきっちり生きなさい』と言われたのだ」。彼女はやがて回復し、結婚し、二人の子にも恵まれ、今はカウンセラーとして若い人たちの相談役になっている。自殺未遂の若い人や、中途障害になった人々が彼女の所に来て、その元気に励まされている。

3.生かされていることを知って生きる

・彼女が言った言葉「死ぬのはまだ早い。もうちょっとそっちにいなさい。そっちでやることがあるのだから、自分の足元からきっちり生きなさい」、それこそが、パウロがこのコリント5章で正に言いたかったことだと思う。どうせ死ぬのだから、どう生きても同じではないかと言うコリントの人々に、パウロは言った「私たちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」(〓コリント5:10)。私たちは使命を与えられてこの世に派遣されている。この世でどう生きるか、それこそ大事なのだ。この世の生を貫いてこそ、天に迎えられるのだ。田原さんは手足をなくすほどにうめき苦しむことを通してそのことを知った。だから、死んでいた田原さんが生き返ったのだ。

・天に建物が用意されていることを、私たちは疑う必要はないとパウロは言う。『三本の指が残されていることが恵みであることを知った』事こそが、聖霊が働いたしるしである。これこそパウロが5:5で述べていることだ「私たちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです」。神の霊が田原さんに、「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」事を知らせた。彼女は地上の着物の上に、天の着物を着たのだ。今の彼女はもう死ぬことを恐れないだろう。何故なら、神に生かされている事を知った時、死は仮住まいの家から永遠の家に帰る出来事になる。

・私たちは過去に囚われて生きている。自分には才能が無い、お金が無い、学歴が無い、地位がない。あの人にはあるのに自分には無い。そう思うとき、私たちは他人が妬ましくなったり、自分に絶望したりする。過去の生き方が、現在の私たちの生存を規制する。しかし、聖書は言う「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。キリストを通して神に出会うことにより、人はそれぞれの賜物を持ってこの世に遣わされ、精一杯生きるように造られている事を知る。与えられた賜物をもって精一杯生きれば良い、それを他者と比較する必要などない、それが神の喜ばれる行き方だと知らされた時、私たちの人生は変わる。無いものに不満を言うのではなく、あるものに感謝する生き方になる。その時人は「新しく創造された者」になる。

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