江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年9月19日説教(ヨハネ10:1-18、良き羊飼いとは誰か)

投稿日:2004年9月19日 更新日:

1.羊と羊飼い

・ヨハネ10章は羊と羊飼いの物語だ。聖書では指導者が羊飼い、民が羊として描かれることも多い。指導者は神の委託を受けて羊の群れを飼う羊飼い=牧者であり、その委託を果たさない指導者は「自分自身を養うイスラエルの牧者は災いだ。牧者は群れを養うべき者ではないか。」と批判されている(エゼキエル34:2)。

・ヨハネ10章においても、この文脈の中で羊飼いの説話が語られている。中心の課題は「良い羊飼いとは誰か」である。ヨハネ10章には三種類の羊飼いが出てくる。最初は盗人であり、強盗だ。イエスは言われる「私は羊の門である。私よりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。」(10:7-8)。これは自分の利益を図るために人々をむさぼっていた当時の指導階層、パリサイ人やサドカイ人に対する批判の言葉だ。何時の時代でも指導者の多くは、人々からむさぼることしか考えない。彼らは指導者と言うよりも支配者だ。人々を支配して自分の利益を図ろうとする。「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするために他ならない」(10:10)。民のことを考えず自分を養おうとする指導者は強盗であり、盗人だと言われる。

・次に出てくるのは雇い人の羊飼いだ。雇い人は羊のために働くが、彼の最終関心は報酬であり、羊ではない。だから狼、即ち困難な情況が来ると逃げてしまう(10:12-13)。当時、神殿には多くの祭司が仕え、犠牲を捧げ、民のために祈っていたが、民衆が困窮していても気にかけることもなかった。祭司にとって、人々の生活よりも自分の生活の方が大事だった。

・最期にイエスが言われたのは「良い羊飼い」である。良い羊飼いは自分の羊のことを良く知り、羊もまた羊飼いを慕う(10:15)。パレスチナの羊飼いは羊の一匹一匹に名前を付け、それぞれの特徴や性格を熟知する。そして羊は彼の声をよく知っているので彼についていく。良い羊飼いとは、一匹の羊が迷ったら残りの九十九匹を残しても探しに行くものであり、その一匹が見つかれば担いで家に帰り、友達や近所の人を招いて祝宴を開くとイエスは言われる(ルカ15:4-6)。一匹一匹の羊を自分の子のように大事にするのが良い羊飼いだ。


2.良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

・このヨハネ10章の説話を現代社会の中で考えてみると、三つの論理が浮かび上がってくる。一つは狼の論理だ。この世は弱肉強食であり、強い者が生き残り、弱い者を支配する。資本主義はこの論理の社会化であり、私たちも強い者、優れた者が勝者になることに疑問を持たない。二番目は雇い人の論理だ。彼らは狼ほど悪質ではないが、その中心はあくまでも自分で、自分の不利益になることはしない。「金の切れ目は縁の切れ目」という言葉が象徴するように、現代社会を構成する二つ目の論理だ。しかし、私たちには三つ目の論理、即ち「良い羊飼いの論理」が示されている。

・イエスは言われた「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10:15)。荒野では獣が羊を狙い、襲ってくる。羊飼いは杖で獣と戦い、羊を守る。場合によってはそのために命を落とす。良い羊飼いの関心は自分ではなく羊だから、羊のために命を捨てる。イエスは言われた「私は良い羊飼いである。群れの羊を救うために自ら十字架につく。だから父は私を愛して下さる」(10:17-18)。良い羊飼いとは、群れの羊一匹のために持ち物全てを、最後には自分の命さえも差し出す用意のある者だ。だから聖書はイエスを「羊の大牧者」(ヘブル13:20)あるいは「魂の牧者」(1ペテロ2:25)と呼ぶ。教会はこのキリストを頭とする羊の群れであり、牧師はキリストからその職を委託されている。牧師とはラテン語=パストアの訳であり、パストアとは羊を飼う者と言う意味だ。だから牧師は教会の群れのために命を捨てなさいと命じられている。

・しかし、現実の牧師は教会のために、あるいは信徒のために、命を捨てることは出来ない。そのために、羊である信徒が散らされる出来事が生じている。現在、日本の多くの教会は財政危機を抱えている。20-30人の信徒しかいない教会は多く、そのような教会では信徒の献げる献金の大半が牧師給に消えてしまう。それ以下の教会では、牧師給を支払えないため、教会は無牧、牧師不在になって衰えていく。バプテスト連盟には328の教会・伝道所があるが、そのうち66教会は経常献金300万円以下で、無牧になっている場合が多い。イエスは、話を聞くために集まってきた人たちが「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:36)と聖書にあるが、そのような状況が現在、あちらこちらの教会で生じている。

・どの牧師も自分を雇われ牧師とは考えないし、羊のことを気にかけている。それにもかかわらず、俸給の支払われない教会の牧師を務め続けることが出来ない。牧師もまた生活者として自分のことを考える存在だからだ。牧師もまた良い羊飼いになれないという限界の中に地上の教会は立てられている。では教会もこの世と同じ論理に動かされているのか。良い羊飼いの話は架空の話なのか。それが今日、私たちが知りたいことだ。

3.限界者を牧者に立てられる神

・今日の招詞にヨハネ21:17を選んだ。次のような言葉だ。「 三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、私を愛しているか』。ペトロは、イエスが三度目も『私を愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます』。イエスは言われた。『私の羊を飼いなさい』」。

・復活されたイエスは、ガリラヤで弟子たちに現れ、共に食事をされた。食事の後で、イエスは三度にわたってペテロに尋ねられた「あなたは私を愛するか」。ペテロはイエスが三度も尋ねられたので、悲しくなって答えた「主よ、あなたは何もかもご存知です」。ペテロはイエスの裁判の時に、「イエスを知らない」と三度否認した。だから三度も「愛するか」と確認された時、ペテロは下を向いた「あなたは私が弱く、罪を犯し続ける人間であることを知っておられます。私はあなたの前に何の申し開きも出来ません。ただ、あなたの赦しを願うだけです」。そのペテロに対してイエスは言われた「私の羊を飼いなさい」。イエスはペテロが弟子の筆頭であり、その信仰が立派だから、ペテロに教会を委ねられたのではなく、ペテロが自分は罪人であることを深く自覚し、悔い改めたからペテロに教会を託された。ここに現実の教会の限界を破るものがあると思う。

・ペテロはその後伝道者として、イエスの福音を語るために旅を続けた。しかし、弱さを持ったままの伝道者であった。ガラテヤ書によれば、「キリスト者も割礼を受けなければ救われない」というユダヤ主義者に迫られると、割礼を受けていない異邦人と一緒に食事をするのをためらうようになった(ガラテヤ2:11-14)。また伝承によれば、ローマ皇帝ネロの大迫害が始まった時(紀元64年)、ペテロは勧められるままにローマから脱出しようとし、途中でローマに向かう幻のキリストに出会い、『私はローマの信徒のために再び十字架にかけられるためにローマに行く』との言葉を聞き、恥じて共にローマに戻り、そこで殉教したと言う(シェンキェヴィッチ「クオ・ヴァディス(主よどこへ)」(1896刊)。

・ペテロでさえも限界を持っていた。しかし、そのようなペテロにイエスは御自分の群を託された。それが意味するものは何か。パウロは言う「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」(〓コリント4:7)。良い羊飼いはキリストだけなのだ。ペテロでさえ、良い羊飼いではなかった。かって牧師につまずいて教会を離れた経験をお持ちの人もいるだろうが、これからはそうしてはいけないと聖書は教える。ペテロが弱かったからこそ後に続く牧師が励まされたように、牧師が弱いからこそ信徒もまた励まされるのだ。人が弱い時にこそ神が働いて下さる。足らない所は補って下さる。だから限界を持つ牧師と信徒が構成する教会が、その限界を打ち破る力を持つのだ。

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