江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年8月29日説教(ヨハネ8:1-11、私もあなたを罪に定めない)

投稿日:2004年8月29日 更新日:

1.裁きと赦し

・先週、私たちは、これから教会をどのように形成していけば良いのかについて、1コリント3章から学んだ。私たちが学んだことは、教会はこの世にあるが、この世には属さず、教会形成はこの世ではなく、神の基準で為すべきであるということだ。神の基準で教会を形成するとは具体的にどういうことか。今日、私たちはヨハネ8章から、御言葉を聞きたい。

・ヨハネ8章は、「姦淫の女」の話である。イエスが神殿の境内で教えておられた時、律法学者達が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来た。そしてイエスに言った「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。あなたはどうお考えになりますか」(ヨハネ8:4-5)。律法学者たちは、民衆に人気のあるイエスを妬んでいた。彼らはイエスを陥れようとして、今ここに姦淫の女を連れてきた。

・当時の社会では姦淫は重大な罪であり、律法は「姦淫を犯した者は石で撃ち殺し、悪を取り除け」(申命記22:13-24)と教えていた。もし、イエスが律法に従い、「女を石打の刑に処しなさい」と言われたら、愛と赦しを説かれていたイエスの評判は地に落ちるだろう。もしイエスが「女を赦しなさい」と言われたら、それは罪は罪とせよという聖書の教えに背くことになる。どちらを答えてもイエスは不利になる、律法学者たちはそう考え、早朝の神殿に、この女を引き連れてきたのである。

・しかし、イエスは何も答えられず、ただ指で地面に何か書き始められた。イエスの周りには、律法学者達の意地の悪い冷酷な顔、民衆の卑猥な好奇心、捕らえられた女の身を切るような恥ずかしさがあった。律法学者たちは何も答えないイエスを責め続ける。イエスは身を起こして言われた「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(8:7)。イエスが言われたのは、この女ではなく、自分を見つめよということだ。この女は罪を犯した。しかし、罪人であるのはこの女だけか。あなた方は、自分は罪を犯したことがないと断言できるのか。もし出来るなら石を投げよ。

2.罪を赦された時

・イエスが彼らに求められたのは、自分への振り返りだ。私たちが非難すべき者だけに目を注いでいる間は、自分への振り返りはない。イエスが何も答えられないことにより、彼らの視線は姦淫の女からイエスへ、イエスから何かを書いておられるイエスの指先へと注がれる。イエスの指先が指すのは彼らの良心だ。良心に誓って罪の思いを持ったことがないと言えるなら、石を投げよとイエスは言われた。
・この自分への振り返りが信仰においては大事だ。もし、この女が自分の娘だったら、私たちは石を投げるだろうか。あるいは、この女が自分自身だったら、私たちは他の人が石を投げるのを、当然だと思って受け止めるだろうか。私たちが人を裁けるのは、自分自身への振り返りがないからだ。律法学者たちはイエスの言葉に自分達を振り返り、石を投げることが出来なくなった。女とイエスが後に残された。イエスは女に言われた「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」(8:10)。これは裁判官の裁きの言葉ではない。隣人の問いかけであった。女は答えた「主よ、誰も」。イエスは言われた「私もあなたを罪に定めない」。

・これは罪を問わないことではない。罪は罪として認めた上で、刑の執行を猶予すると言われたのだ。「あなたは過ちを犯した。しかし、あなたの人生は終わっていない。私はあなたに機会を残そう。それはあなた自身が自分を購う機会だ」。だからイエスは続けて言われた「もう、罪を犯してはいけない」。律法学者は力で女を屈服させようとした。力による屈服は、心からなる服従は生まない。本当の服従は赦しから来る。罪が在るのに赦された時、人はもはや反抗することは出来ない。この言葉をいただいた者は、もう元の罪ある生活には戻れない。

・この姦淫の女性はマグダラのマリアではないかと言われている。イエスの十字架の時にゴルゴダの丘まで従い。イエスが葬られた後はその墓にまで行き、復活のイエスと最初に出会った婦人だ。神の赦しを経験した者は、もう元の生活に戻れないのだ。そして私たちもこの赦しを知っているから、教会につながる者とされたのだ。

3. まず神との関係を正せ

・今日の招詞に、詩篇51:3―5を選んだ。次のような言葉だ「神よ、私を憐れんでください。御慈しみをもって、深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。私の咎をことごとく洗い、罪から清めてください。あなたに背いたことを私は知っています。私の罪は常に私の前に置かれています。あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。」

・詩篇51編の前には次のような但し書きがついている「指揮者によって、賛歌。ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」。ダビデはある時王宮から、女が湯浴みする姿を見た。彼女の美しさに、ダビデは自分の欲望を抑えることが出来なくなり、女を王宮に招いて寝た。ダビデは女を自分のものにするために、女の夫、自分の部下でもあるウリヤを殺した。その罪を預言者に問われた時に、ダビデは改めて自分の犯した罪の重さを知り、神に叫んだ「神よ、私を憐れんで下さい。私の罪を洗い去って下さい」。

・ここでダビデは、ウリヤに対して、またバテシバに対して「罪を犯しました」と言っていない。あくまでも「神に対して」罪を犯したと告白している。聖書でいう罪とは、「的をはずす、誤る」と言う意味だ。神との関係が的をはずしている、正しくないのが罪であり、神との関係が誤っているから、人との関係も誤り、それが殺人や姦淫等の目に見える罪として現れてくる。だからまず正すべきは神との関係であり、神との関係が正された時、人との関係も正しくなる。そして私たちが心から悔い改めた時、神は言われる「私もあなたを罪に定めない。もう罪を犯してはいけない」。

・律法学者たちはイエスを憎んでいたが、イエスの言葉の中に、神の声を聞いた。だから女を裁くことが出来なくなった。裁かれているのが女ではなく、実は自分自身であることがわかったからだ。私たちが自分の正しさに固執してあくまでも相手を裁こうとする時、実は私たち自身が神から裁かれているのだ。この神の裁きに耐えうる人がいようか。自分の正しさを捨てて、神の正しさを求めよう。もし、誰かと不和であれば、神との関係が壊れているということを認識しよう。私たちがまず為すべきことは神との関係の正常化だ。そのために、聖書を読み、祈り、神からの言葉をいただくために礼拝に参加する。一人一人が教会生活に真剣に取り組み始めた時、教会は正しく形成され始める。

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