1.役人の息子のいやし
・先週、私たちはイエスがサマリアで一人の女と出会われ、その出会いを契機にサマリアの人々の悔い改めが起きたことを学んだ。イエスはサマリアに二日滞在され、それからガリラヤに行かれた。そのガリラヤで起こった出来事を今日はご一緒に聞いてみたい。サマリアと同じく、ここでも決定的な出会いにより、家族の救いが生じている。
・イエスが故郷のガリラヤに戻られた時、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。ガリラヤの人たちは過越祭りの時にエルサレムに巡礼に行き、そこでイエスが為された数々のいやしの業を見ていたからである。そのため、イエスは病のいやしで評判を集めるようになった。そのうわさは、ガリラヤの中心であるカペナウムにも聞こえ、カペナウムの王宮に仕える一人の役人が、そのうわさを聞いて、イエスがおられたカナの地まで会いに来た。彼の息子が重い病気にかかり、いろいろ手を尽くしたが治らず、最後の頼みとして、イエスにいやしていただくために、30キロの道のりを歩いて来た。
・役人はイエスに、カペナウムまで下って息子をいやしてくれるように頼んだ。しかし、イエスの返事は冷たいものだった「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(ヨハネ4:48)。あなた方はご利益だけを求め、何が神の御心であるかは求めようとしない、あなたもそうかとイエスは問われた。しかし、役人はあきらめなかった。息子の命がかかっているからだ。彼はくじけずに訴えた「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」(4:49)。イエスは父親の熱心に感動して言われた「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(4:50)。父親は、イエスが来てくれないので半ばがっかりして、でも「あなたの息子は生きる」と言われたので半ば期待して、帰りの道についた。その途中で、迎えに来た召使たちと出会い、息子が良くなったことを聞かされた。息子の熱が下がった時間を尋ねると、午後1時で、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと、同じ時間であることを知った。「彼も彼の家族もこぞって信じた」とヨハネ福音書は記す。
2.必死の求めにお応えになる主
・彼はカペナウムの王宮に仕える役人であった。カペナウムにはガリラヤの領主ヘロデ・アンテイパスの王宮があったから、ヘロデに仕える高官ないし軍人であったと思われる。役人と訳されているバシリコスという言葉は身分の高い役人を意味するし、召使がいることからも、相応の身分の人だったと思える。その彼が、イエスの前に頭を下げた。カナの人々はその有様を見て、びっくりしたであろう。政府の高官が大工の息子の前にひれ伏したのだ。しかし、役人はかまわなかった。死につつある息子を思う気持ちが、地位や名誉や体面をかなぐり捨てさせた。この必死な願いがイエスを動かした。
・マルコ5章にある会堂司ヤイロの娘のいやしも同じだ。会堂司と言うユダヤ教の指導者が、体面をかなぐり捨てて、娘のためにイエスの前にひれ伏した。ひれ伏すとは、土下座することである。ユダヤ教の指導者が、異端としてユダヤ当局からにらまれていたイエスの前に土下座して、娘のいやしを願った。この熱心が娘のいやしにつながった。本当に大事なものを救うためには、その外のものはどうでも良くなるのだ。
・私が牧師になるきっかけになったのは、息子とのあつれきであった。ある時、息子と喧嘩になり、彼に傷を負わせた。そのことをきっかけに息子は私と口を利かなくなり、同じ食卓につかなくなった。彼と和解したい。そのためには会社も仕事もどうでも良いと思え、イエスの前にひれ伏した。私の場合、それは会社を辞めて神学校に入学すると言う行為になった。その哀願に答えて、主は息子と私の「隔ての壁」を崩してくださった。
・イエスは誰かを信じさせるために、あるいは自分の力を示すために、奇跡を行われた事はない。奇跡が起きる時には求める者の必死の願いとそれに対するイエスの憐れみがあった。この役人はイエスの拒絶にくじけず、求めた。イエスはその人の本気を試されるために、時々このような対応をされる。マタイ15章のカナンの女の時もそうだった。精神の病に苦しむ娘のいやしを求める母親にイエスは言われる「私は異邦人のためには遣わされていない」。母親はそれでも願い続け、願いはかなえられた(マタイ15:28)。この役人の場合でも、もし彼が怒ってそこを去っていたならば、奇跡は起きなかったであろう。このことは、もし私たちが本気でイエスの憐れみを求め続ければ、それは与えられるのだ。
3.あなたの息子は生きる
・今日の招詞にヨハネ11:25−26を選んだ。次のような言葉だ。「イエスは言われた。『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」。
・この言葉はイエスがラザロの墓を前にして言われた言葉だ。イエスはベタニア村に行かれたが、病気のラザロは既に4日前に死んでいた。ラザロの姉マルタはイエスにつぶやいた「もっと早く来てくだされば、弟のラザロは死ななくても良かったでしょうに」。それに対してイエスは言われた「私を信じる者は死んでも生きる」。ラザロは「死んだが復活する」と言われたのであるが、この生きるという言葉がギリシャ語の「ザウ」と言う言葉で、ヨハネ4章でイエスが言われた言葉「あなたの息子は生きる」と言う言葉にも同じく「ザウ」というギリシャ語が用いられている。ギリシャ語で生命を表す言葉には二つの言葉がある。一つは「ビオス」と言う言葉で、生命体として生きることを指す。それに対して「ゾーエー=動詞ザウの名詞形」と言う言葉は、人を生かしている原動力や生命力を示し、霊的に生きることを指す。イエスは父親に「あなたの息子は生きる」と言われた。「助かる」でもなく「治る」でもなく、「生きる」と言われたことに注目すべきだ。病気が治っても人は死ぬ。役人の息子はその時は元気になったが、当然またいつか死んだであろう。この役人も死んでいっただろう。本当に大事なものは死んでも死なない命をいただくこと、ビオスではなくゾーエーの命をいただくことだ。この物語の主題は、死に直面した息子がいやされたことではなく、父親が息子のいやしを契機に信仰者に変えられたことだ。そして父親の回心が家族全体の回心を招いた(4:52)。ここに本当の奇跡がある。
・彼は信じた。宮廷に仕える役人として、彼のその後の生涯は苦難に満ちたものになったと思われる。彼が仕えていた王はヘロデ・アンテイパスであり、その父ヘロデ大王は救い主が生まれたとのうわさを聞いて、ベツレヘムの子供たちを虐殺した。その子アンテイパスは自分を批判したバプテスマのヨハネを捕らえ、その首をはねた。ヘロデはこの世の快楽を追及し、その治世は血に満ちており、イエスは彼を「狐」と呼ばれている(ルカ13:32)。クリスチャンになった彼が、そのヘロデに仕えるためには、多くの困難があったかも知れない。しかし、イエスが与えてくれたものを見て信じた彼は、もはやそれらを気に留めなかったであろう。一番大事なものを見つけた人は他のものはどうでも良くなる。ルカ8章にイエスに従う女性達の名前が在るが、そこに「ヘロデの家令クザの妻ヨハンナ」と言う名前がある(ルカ8:3)。彼の名前は恐らくこの「クザ」で、息子のいやしを契機に、この父親は信仰に入り、その妻も、また息子もイエスを信じたであろう。彼らは「永遠の命=ゾーエー」をいただいたのだ。
・「苦難の日には私を呼び求めよ。私はあなたを助ける」(詩篇50:15)と神は言われる。苦しい時の神頼みでも良いから私を求めよ。求める者には必ず応えると神は約束されている。私たちはこの約束を信じて良い。このヘロデに仕える役人も、会堂司のヤイロも、カナンの女も、マルタも、みな求めて与えられてきた。私も求めて与えられた。皆さんも求めれば与えられる。そして神が応えてくださる時、私たちは人生にとって、何が一番大事なものであるかを見出すのだ。