江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年6月13日説教(ヨハネ3;1−15、新しく生まれ変わる)

投稿日:2004年6月13日 更新日:

1.ニコデモとの対話

・イエスはエルサレムで多くの不思議な業を為された。目の見えない人の目が開けられ、歩けない人の足がいやされた。人々はその業に驚いて、イエスを信じたとヨハネ福音書2:23は記す。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。不思議な業=しるしを見て信じる信仰はやがて崩れることを知っておられたからだ。そのしるしを見て、ニコデモがイエスのもとを訪れた。そのニコデモとイエスの対話を通して、「信じるとはどういうことなのか」を今日は学んでみたい。

・ニコデモはパリサイ派に属し、イスラエルの教師(ラビ)であり、また最高法院(サンヘドリン)の議員でもあった。パリサイ派に属するから、聖書に精通し、その律法を厳格に守ってきた人であろう。また教師であるから、人々の尊敬も集めてきた。最高法院議員であるということは、家柄が良く、また裕福でもあったと思われる。つまり、彼は熱心に神の道を求め、社会的にも尊敬され、生活にも何不自由はなかった。それでも満たされなかった。人は衣食住が満たされても、それだけで生きていくことは出来ない。「このままで良いのか」、「自分は何のために生きているのか」。多くの疑問がニコデモの中にあった。だから、神の業としか思えない不思議な力を示したイエスのもとを訪れた。この人なら、その答えを持っているかも知れないと思ったのだろう。

・しかし、彼がイエスを訪れたのは、昼間ではなく、夜だった。パリサイ派の教師とも在ろう者が、とかくの評判のあるイエスを公然と訪れるわけにはいかなかった。だから、人目を忍んで、夜にイエスを訪ねた。イエスはそのようなニコデモを見て、彼の問題がわかった。だからすぐさま言われた「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」(ヨハネ3:3)。あなたは現在の地位と財産を持ったままで天国に行きたいと望んでいるが、それは無理だ。救いとはそんなに安価なものではない。あなたは今持っているものを捨てなければ天国にいけないとイエスは言われた。

・それに対してニコデモは反論した「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」。ある学者はニコデモの答えを次のように補足する「新しく生れることが必要なことは認めます。しかし、私は年を取りすぎています。私の生き方は既に決まってしまっています。肉体的に生まれ変わることはもちろん、精神的に生まれ変わることも今となっては難しいと思います。あなたが言われることが真理とすれば、私には望みはないのでしょうか」(M.C.テニィー注解)。

・そのニコデモにイエスは答えられた。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」。古い家のある所に新しい家を建てるためには、まず古い家を壊さなければならない。それから、新しい家を建てる。人間の新生も同じで、まず古い自己を清算する罪の赦しを受けてから、新しい自己を建設するための霊的な命をいただく。水で死んで、霊で生きなさいとイエスは言われた。

2. イエスを理解できないニコデモ

・ニコデモは理解できない。イエスは続けて言われた。「 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(3:7-8)。あなたは聖霊を信じていない、霊は見えないからだ。しかし、風は見えないが、風の働きを私たちは音で聞いて、その存在を知る。神の霊も同じで、信じることによって人の心の中に変化と確信が起こるのだとイエスは言われた。そして、私たちが水と霊のバプテスマを受けて新しく生きることが出来るように、イエスは十字架で死なれたと聖書は言う。

・キリストが十字架に死に、その死を通して、私たちも古い自分に死ぬ。キリストが復活し、天に昇り、やがて聖霊として再び私たちと共に住まれる。そのことを通して、私たちも新しい自分に生きる。私たちは、水のバプテスマを通して死に、霊のバプテスマを通して新しく生まれる。水のバプテスマは始まりで、霊のバプテスマは完成だ。霊のバプテスマを受けた時、私たちは、「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と言う状態になる。しかし、ニコデモには理解できない。私たちもまた理解できない。私たちは水のバプテスマを受けたが、パウロのように、キリストが私の内に生きておられると確信を持って言えない。そうであれば、私たちは、まだ、霊のバプテスマを受けていない、新しく生まれ変わっていないのだ。

・イエスはニコデモに対して言われた「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことがわからないのか」。ニコデモは律法の教師として聖書に精通していたが、イエスこそ聖書が預言した神の子であり、イエスの死と復活を通して救いが来ることを理解できない。イエスは続けて言われた「私が地上のことを話しても信じないとしたら、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天に昇った者はいない、しかし天から降った者はいる。私がそうだ、私を通してあなたは天の父と出会うのだ」とイエスは言われた。イエスとニコデモの物語はここで突然終わる。ニコデモがイエスに対してどう答えたのかは、ヨハネは語らない。

3.その後のニコデモ

・今日の招詞にヨハネ19:38−40を選んだ。次のような箇所だ「その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ」。

・ここに再びニコデモが出てくる。ニコデモはヨハネ福音書のなかに3回出てくる。第1回目は夜にイエスを訪ねるニコデモ、ここでは外聞を気にしている。2回目は最高法院でのニコデモ、ヨハネ7:45-52だ。イエスの業を見てますます多くの人がイエスを信じ、ユダヤ当局としてもイエスを放置できなくなり、彼らはイエスを捕らえて殺そうと計画を始める。この時、ニコデモは「相手の言い分を聞いてからでなければ、逮捕するのは不当だ」とイエスを弁護する。しかし、「あなたはイエスの仲間なのか」と問われて黙り込む。最初のニコデモよりも変えられている。議会でイエスのために弁護している。しかし、「あなたも仲間か」と言われれば黙り込む。まだ、ニコデモは新しく生まれていない。

・しかし、3回目に現れるヨハネ19章のニコデモは違う。最高法院が死刑を宣告し、十字架にかけられて死んだイエスの遺体の引取りを当局に申し入れ、公然とイエスを埋葬している。彼にはもう、この世の財産や地位に対する執着はない。その後のニコデモに対する記事は聖書にはないが、聖書外典の「ニコデモ福音書」を読むと、ニコデモはイエスの裁判の時、ピラトの前でイエスを弁護し、その後、最高法院でイエスの復活を証言している。恐らくはイエス死後、ニコデモは弟子たちの群に加わり、復活のイエスにも出会った。イエスが昇天された後、弟子たちは共に集まり、聖霊が与えられるように祈った時、ニコデモもその群の中にいたのであろう。そして、ペンテコステの日に、ニコデモもペテロやヨハネと共に聖霊を受けた。彼は長い道のりを歩いて、やっとイエスの言われたことを理解した。もう彼には何の不安もない。何故ならば、彼は「キリストが私の内に生きておられる」ことを、身をもって体験したからだ。このニコデモの歩みを見る時、新生とは生涯をかけて与えられるものではないかと思える。

・「聖霊を受けて新しく生まれ変わりなさい」と聖書は勧める。私たちはこの勧めをもっと真剣に受け止める必要がある。私たちが癌に犯され、その治療のために高額な医療費が必要な時、私たちはそれがいくらであろうと払う。お金がなければ借りてでも払う。命がかかっているからだ。しかもその命は、やがて無くなる命だ。やがて無くなる命のために一生懸命になれるのであれば、何故永遠の命のために一生懸命にならないのかと聖書は問う。ニコデモは迷いながらもイエスを求め続け、最後には新しく生まれることが出来た。遅いと言うことはない。聖霊を求めて祈り続けよう。教会につながり続けよう。聖書は約束する「求めなさい。そうすれば、与えられる。・・・天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ 11:9-13)。

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