江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年5月9日説教(ヨハネ15:12-17、赦し合いなさい)

投稿日:2004年5月9日 更新日:

1.愛し合いなさい

・教会では5月の第二日曜日を母の日として祝う。これは100年前にアメリカの小さな教会で始まった出来事に起源を持つ。1905年5月9日、ジョージア州の小さな町の教会で40年間教会学校の先生をしていたクレア・ジャーヴィスという婦人が亡くなった。教会学校で教えてもらっていた子供たちがクレア先生の命日に、娘のアンナを招いて、話を聞くことにした。アンアは母親の好きだった白いカーネーションの花たばを持ってきて、母の思い出を語った。それから、その教会では毎年5月の第二日曜日に母親の追悼会を行うようになり、それが次第にアメリカ中に広がり、やがて「母の日」として、アメリカの祝日になっていった。

・日本では1920年代には、教会で母の日を祝うようになり、やがてこれが一般にも広がり、今日では5月第二日曜日は「母の日」として祝うようになった。元来この日は「亡くなった母を追悼する日」であり、母を通して命を与えてくれた神に感謝する日である。しかし、今日では、母の日が「お母さん、ありがとう」とプレゼントをする日に変わってしまい、母のいない子供や、子供のいない母親はさびしい思いをするようになったため、教会ではあまり祝わなくなった。ちなみに父の日は6月第三日曜日であるが、これは母の日の礼拝説教を聴いたジョン・ドットという人が「自分たちは母亡き後、父が男手一つで育ててくれた」と思い、父の命日に近い6月第三日曜日に感謝の会を開いたのが始めてであるという。

・先に述べたように、母の日、父の日は、本来は亡くなった父や母をしのび、自分にこの両親を与えてくれた神に感謝する時である。私たちはこの父の日、母の日をもう一度本来の姿に戻したいと願う。父また母に感謝するということは、自分を生んで、育ててくれたことに感謝することであり、また父母を通して自分を創り生かしてくださる神に感謝することである。母の日をそのような日にしたい。

・父及び母を中心に形成される家族を結ぶ絆は、愛である。今日は母の日を記念して、この家族を結ぶ愛について聖書から学んで見たい。テキストはヨハネ15章である。イエスは言われる「互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:12-13)。

2.アガペーとエロス

・ヨハネ15章はイエスの惜別の言葉の一部である。捕らえられる前日、すなわち最後の晩餐の時、イエスは弟子たちの足を洗われた。そして言われた「私があなた方の足を洗ったのだから、あなた方もお互いに足を洗いあいなさい」(ヨハネ13:14)。その後、イエスは弟子たちに向かって惜別の言葉を述べ始められる。その言葉がヨハネ14章からの言葉であり、その文脈の中で「互いに愛し合いなさい。これが私の与える掟である」とイエスは言われている。

・15章12節でイエスがまず言われていることは「私があなた方を愛したのだから、あなた方も互いに愛し合いなさい」という事だ。この愛はイエスから始まっている事をまず覚えよう。次にここで使われている「愛しあう」という言葉にアガペーというギリシャ語が当てられている事を知ろう。アガペーの愛は、私たちの知っている愛=エロスとは異なる。エロスとは好きとか嫌いとか言う時の人間の思いだ、私たちの愛は妻や子を自分の分身として愛する愛だ。聖書はこのエロスの愛を否定しない。それは人間にとっては自然な、基本的な愛だ。しかし、この愛は一つの限界を持つ。何故なら、自分とその分身を愛するということは、自分を傷つける者、あるいは敵対する者に対しては閉鎖的になるからだ。分身であるはずの配偶者や家族でさえ、ある時は敵として排除される。

・T.ボヴェーというスイス人の心理学者がいる。彼が「家庭生活の歓び」という本の中で、次のような相談の手紙を紹介している。「私は私の配偶者に対して、一度だけ不実を犯しました。その時以来、相手はもはや私をまともに扱ってくれません。私のことを我慢してくれてはいるのですが、もう全然優しさが感じられないのです。それと言うのも、私の軽はずみのせいなのです。そして私には以前のように、幸せな気持ちで相手としっかり結びついた人生を送る資格はないということも良くわかっています」。

・かっては愛し合っていたが、配偶者の不実や過ちをきっかけに愛を失くす夫婦は多い。ボヴェーは言う「この手紙は二つの事実をはっきりと示している。一つは、罪のない方の配偶者は、罪を犯した方をどうしても許せないことだ。表面的に相手を赦したとしても、相手の背信行為を忘れることが出来ず、内面的には冷淡なままである。二つめの事実は、『負い目を負った方の配偶者』が罪を犯したという判決を認めて、なおその後も『負い目のない人』のそばで、忍従の生活を続けなければならないということだ。この相談者はもう相手に何の要求もしないし、あきらめの気持ちで生き続けている」。背信行為をした方とされた方のこの両者の関係はキリストを知らない時は、関係が修復されないで終わる場合が多い。多くの夫婦が、現実的には破綻している結婚生活を、世間体や経済的理由で、継続している事実を私たちは知っている。キリストを知らない人々は、愛情関係が壊れたら終わりだ。回復がない。しかし、キリストを知る者は、このような関係を打ち破る力を与えられる。

3.赦し合いなさい

・今日の招詞にヨハネ福音書8:10−11を選んだ。先週と同じ箇所だが、もう一度見てみたい。次のような言葉だ。「イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか』。女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」

・イエスは姦淫の罪を犯したとして目の前に連れられてきた婦人に、その罪を問いただすことなく、ただ一言だけ言われた「行きなさい、もう罪を犯さないように」。この女性が自分の罪を深く悔いていることを知っておられたからだ。「私もあなたを罰しない」、この赦しが婦人の人生を根底から変え、彼女はやがてイエスの弟子となり、他の弟子たちが逃げ去った後もイエスに従って行った。ボヴェーは言う「相手の負い目を赦そうとしない人間は自分を正しい人間だと思っているかも知れないが、そういう人は絶対にキリスト者ではない。自分自身の罪の赦しを受入れようとしない人は、自分を謙虚な人間と思っているかも知れないが、彼もまた決してキリスト者とは言えない。・・・どの夫婦もお互いに罪を犯しており、お互いに不実なのだ。それを認めてキリストの前に赦しを請う時、その夫婦はキリストにある夫婦になる。・・・この赦しこそがあらゆる結婚生活の根底的基礎であり、どれほど雨が降っても流されることのない岩の土台なのだ」。

・姦淫の女の話では、傲慢なパリサイ人たちさえも、「罪のない者だけが石を投げよ」との神の言葉を受けて、自分たちには「石を投げる資格はない」と悔い改めた。パウロが言うように「罪のない人などいない」。石を投げる資格を持っているのは神だけなのだ。もし、「自分は罪がない、悪いのはあの人だ」と言い続けるならば、私たちはキリストの十字架を知らない者だ。キリストは私たちのために死んで下さったのだ。神の言葉の前に、自分もまた罪人である事を知らされ、不実を犯した方も、犯さなかった方も、共に並んでキリストの前に跪くとき、二人は以前にもまして深く結びつくようになる。この時、彼らはもう人間的な愛情だけで結びついているのではなく、神の愛そのものが二人の間で生きて働いているからだ。神が和解して下さったから、私たちも人と和解できるようになったのだ。

・人を結婚まで導くのはエロスの愛だ。しかし、真の家族を形成させるものはアガペーの愛だ。エロスの愛は、お互いの目を見つめあい、やがて壊れる。アガペーの愛は共に天を見つめる愛だ。この愛をイエスは私たちに教えてくれた。この愛で満たされたとき、その人は過去に何があったとしても、もはや「烙印を押された者」でもなく、「罪を逃れた者」でもない、一人の全き人間になる。イエスは言われた「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」。この言葉を私たちは次のように言い換えよう「私があなた方を赦したように、あなた方も互いに赦しあいなさい。これが私の掟である」。

・私たちは偶然に、今日、この教会に来たのではない。偶然にヨハネ15章の御言葉に触れたのではない。イエスは続けて言われた。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命したのである」(ヨハネ15:16)。実を結びなさい、赦し合いなさい、愛し合いなさい。この言葉をキリストから受けるために、皆さんは今日、この教会に集められたのだ。

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