江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年3月7日説教(ヨハネ9:1-17、神の業が現れるために)

投稿日:2004年3月7日 更新日:

1.生まれつきの盲人のいやし

・イエスがエルサレムの市内を歩いておられた時、道端に、生まれつきの盲人が座って、物乞いをしているのを見られた。多くの人は、盲人の前を無関心に通り過ぎて行ったが、イエスは立ち止まって、その盲人を見つめられた。古代社会において、障害者は物乞いをする以外に生きる道が無かった。イエスは、この男を憐れんで立ち止まられた。しかし、弟子たちは無遠慮にイエスにたずねた「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(ヨハネ9:2)。当時の人々は、罪の結果として病気や障害になると考えていた。弟子たちが聞いたのは「誰が悪いのか」ということだった。それに対して、イエスは言われた「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(9:3)。「神の業が現れるために」、神の業はどのようにして、示されるのだろうか。今日は、このヨハネ9章の盲人のいやしから、御言葉を聞いてみたい。

・弟子たちは、この人は罪の結果として、盲という不幸を背負って生まれたと思った。人は自分が不幸になったり、他人が苦難にあう時「何故私にこのような不幸が」、「何故あの人にあのような災いが」と原因を追究する。その時、本能的に自分を正当化しようとする。「私が悪いのではない。あの人が悪いのだ。だから、私に責任はない」と。弟子たちは、この盲の人が親の責任か、本人の責任で、障害を持って生まれたと考えた。そう考える時、この人の障害はこの人の問題であって、私の問題ではない。この人が物乞い意外に生きる道がないとしても、私に責任はない。だから、この人のために何もしない。

・しかし、イエスは違った。「他人の罪を数えて、非難したり裁いたりしても何も生まれないではないか。そうではなく、どうすれば、この人に現れた不幸を失くすことが出来るかを神に求めよ」と。弟子たちは無意識のうちに盲人を裁いていた。誰が悪いのかと罪を数えていた。しかし、罪を数え、過去を追及しても、何も生まれない。イエスが言われたのは、悪の原因を数えるのではなく、どうすれば悪が善に変わりうるかを求めよと言うことだ。イエスはこの人に向き合われた。この人を裁かないで、憐れまれた。神は彼を捨てておられない。だから、神は私をこの人の前に派遣されたのだ。さあ、この人のために働こう。イエスは言われた「私たちは、私をお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。私は、世にいる間、世の光である」(9:4-5)。世の光、この人のために、私は世に遣わされたのだ。

・そして、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われた。彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。いやしがなされた。弟子たちは過去に目を向ける「誰が悪いのか」。イエスは将来に目を向けられる「どうすれば良くなるのか」。どちらに目を向けるかで、私たちの生き方は変わってくるのだ。

2.いやしの後で

・しかし、物語はここで終わらない。むしろ、ここから始まる。そこにはパリサイ人がいた。彼らは、盲人がいやされたことよりも、その日が安息日であることを問題にして、イエスを批判した。安息日は7日目に休むように、神に命じられた日であった。その日は仕事をしてはいけない。「休みなさい」という神の命に背くからだ。厳格に律法を守るパリサイ人たちは言った「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」(9:16)。生まれつきの盲人がいやされたことを喜ぶよりも、安息日を守らないとして、怒る人々がここにいるのだ。これはパリサイ人だけの問題ではなく、私たちの問題でもある。例えば私たちは、ペンテコステ派や聖霊派の人々の熱狂的信仰を見て批判する「彼らはいやしや聖霊降臨を強調して、狂ったように礼拝する。あの人たちは聖書的ではない。あの人たちは福音を誤解している」。しかし、彼らの心に燃える信仰の火があり、それが多くの人を教会に導いているのは事実だ。私たちは、多くの人が教会に導かれていることを喜びもせず、彼らは異端だと非難している。私たちもこのパリサイ人と同じなのだ。

・パリサイ人たちは、イエスが神の元から遣わされたと信じることが出来ない。しかし、生まれつき盲の人が、今見えるようになったという事実も否定することは出来ない。彼らは盲人であった人を呼んで問いただした「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか」(9:17)。私たちは、安息日の戒めを破ってお前をいやしたイエスは罪人と思う、お前はどう思うかと聞いたのだ。盲人であった人はイエスが罪人であるか、どうか知らない。しかし、彼は見えなかった目が今は見えることは知っていた。そして、このような業は神から出たものとしか思えない。彼は答えた「あの方は預言者です」。神から遣わされた人でない限り、このような業は出来ない。彼はその信仰を告白した。


3.いやしから救いへ

・生まれつき、盲であった人の信仰告白が新しい問題を引き起こした。今日の招詞にヨハネ9:35―39を選んだ。今日の話の続きの箇所だ。「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと『あなたは人の子を信じるか』と言われた。彼は答えて言った『主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが』。イエスは言われた『あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ』。彼が『主よ、信じます』と言って、ひざまずくと、イエスは言われた『私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる』」

・パリサイ派は繰り返し、イエスの罪を認めよと男に迫った。しかし、男は引かなかった。男は言った「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(ヨハネ9:32-33)。彼は度重なるパリサイ人の脅迫にもかかわらず、自分をいやして下さった方は神から来られたのだと主張を曲げなかった。パリサイ人は彼を外に追い出した。外に追い出す、シナゴーク=会堂から追放すると言う意味である。当時の社会で会堂から追放されることは、ユダ人社会からの追放、村八分を意味していた。彼は今まで盲であったから、社会の中からつまはじきにされていた。今度は見えるようになったのに、パリサイ人の権威を認めなかった故に交わりから追放された。交わりからの追放、仲間はずれにされることがどれほどつらいか、私たちも知っている。

・彼が会堂から追放されたことを聞いて、イエスが彼を捜して、来られた。そして言われた「あなたは人の子を信じるか」。盲であった男は誰が人の子であるか、知らない。イエスは言われた「私がそうだ」。彼はその言葉を聞くと、イエスの前に跪いた「主よ、信じます」。ここに「いやしが救いになった」。救いは会堂追放という痛みを伴うかも知れない。しかし、それでも良いではないか。私たちがキリスト者になることで、これまで頼りにしていた人が離れていくこともあるだろう。長年積み重ねてきた努力が否定されることもあろう。出口のない迷路のような苦しみにあうかもしれない。それでも良いではないか。信仰は孤独に打ち勝つ力だ。主が共にいてくださるのであれば。信仰者には絶望しない自由が与えられているのだ。

・体のいやしは一時的なものだ。目の見えない人が見えるようになっても、彼はやがて死に、また目は見えなくなってしまう。しかし、魂の救いは異なる。死んでも生きる。この人は体のいやしを通して、魂の救いを得た。神の業が現れるとは、盲の人の目が開くことではなく、そのことを通じて、魂の救いが与えられたことだ。神の業は困難や苦難を通して現れる。私たちが「誰が悪い、彼が悪い」と言っている間は、神は働きようがない。何故なら、神は私たちを通して働かれるからだ。私たちが苦難を不幸と見るときに、苦難は苦難のままだ。しかし、苦難を通して、神は働こうとしておられると信じる時、苦難が祝福に変わる。私たちにはイエスの業は出来ない。私たちは盲人の目を開くことは出来ない。しかし「神はあなたを見捨てない。私もあなたを見捨てない」ということは出来る。その時、神の業が働き始めるのだ。

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