江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年2月29日説教(マタイ4:1-11、人はパンだけで生きるのではない)

投稿日:2004年2月29日 更新日:

1.受難節の始まり

・今週から、私たちは受難節に入った。受難節は、2月25日の「灰の水曜日」から4月11日の復活日までの40日間(日曜日を除く)で、キリストの十字架をしのんで、信仰者も節食・節欲に努める時だ。40日間あるから、4旬節とも言う。期間が40日と定められたのは、キリストが荒野で40日間断食され、苦しみを受けられたからだ。今日は、受難節第一主日を覚えるために、このキリストの荒野での試練について、学んでみたい。

・イエスは宣教の始めにバプテスマを受けられた。バプテスマの時、天が開いて声が聞こえた「これは私の愛する子、私の心にかなう者」(3:17)。イエスが、ご自分が神の子として世に遣わされたことを自覚されたのは、この時であったであろう。そして、神の子として何をすれば良いのか、それを聞くためにイエスは荒野に導かれた。その荒野で40日間断食され、空腹を覚えられた。すると、そこに誘惑する声があった「神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ」。それに答えられたイエスの言葉が、今日の説教題「人はパンだけで生きるのではない」と言う言葉だ。

・イエスは40日間断食された。40と言う数字は聖書では試練の時を示す。ノアの洪水では40日40夜雨が降り続いた(創世記7:12)。モーセはシナイ山で十戒を受ける時、40日断食をした(出エジプト記24:18)。イスラエルの民は約束の地に入るまで、40年間荒野をさまよった。試練は2−3日、あるいは2―3年という短い期間ではない。短すぎれば試練にならないからだ。また、100日や100年と言う長い期間でもない。長すぎれば、人間には耐えられないからだ。40日、40年、短い期間ではないが、同時に耐えられないほどの長い期間でもない。イエスの試練もまた、神から与えられた。「霊に導かれて」(マタイ4:1)とあるように、イエスを荒野に導かれたのは、神ご自身であった。

・荒野での40日の断食によって空腹が絶頂に達した時に、声が聞こえた「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイ4:3)。これは恐らくイエスの内面から来る思いであったのだろう、その声は言った「多くの人はパンがなく飢えている。今、石をパンに変えれば、みんなが食べられるではないか。それが神の子の使命ではないのか」。人間であれば、これは誘惑にならない。石をパンに変えることは不可能だからだ。しかし、イエスにはそれを可能にする力が与えられていた。後に、イエスは婚礼の席で水をぶどう酒に変えられ、ガリラヤ湖のほとりでは、5つのパンで5千人を養われた。イエスには石をパンに変える力が与えられている。そして、多くの人が飢えていることをイエスは知っておられた。

・パレスチナの地は元々豊かな土地、乳と蜜の流れる国と言われたところだ。みんなが食べるだけの穀物を生産するだけの土地の豊かさを持つ。しかし、時代が進むに従い、金持ちが土地を買占め、農民は土地を奪われて小作農となり、平常でもやっと食べることの出来るぎりぎりの生活に追い込まれていた。そのため、旱魃や災害が起こり、不作になると、たちまち飢餓に追いこまれる。多くの人がパンを食べることの出来ない状況になったのは、天災ではなく、人災であり、従って、今日のパンを与えても、明日はまたパンがなくなるのだ。その状況を解決しない限り、ここで石をパンに変えても、問題は解決しない。イエスは誘惑に対して言われた「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)。

2.人はパンだけで生きるのではない

・今日の招詞に申命記8:2-3を選んだ。イエスが誘惑者に答えられた言葉の出典だ。次のような言葉だ「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

・エジプトを脱出したイスラエルの民は、荒野を40年間放浪しなければならなかった。荒野だから、食べ物に乏しい。食べることの出来ない日もあったであろう。民は神を呪い、エジプトを出るのではなかったと文句を言った。エジプトでは、彼らは奴隷であったが、食べ物はあった。その不平を言う民に、神はマナを与えて養われた。エジプトを脱出した民が、まず導かれたのは荒野であった。しかも、その荒野で40年もの長い間放浪した。何故,荒野の40年間が与えられたのか。それは誰が食べ物を与え、誰が水を与えているかを、身をもって知るためであった。食物や水の有難さは、無くなって見ないとわからない。無くなってみて、初めて水や食べ物がどんなに貴重であるか、誰がそれを与えてくださるのかがわかる。

・「人はパンだけで生きるのではない」言われているのは、人はパンがなくても生きることが出来るという意味ではない。生きるためにパンが必要なことは、父なる神はご存知だ。父が肉の糧は与えて下さるから、あなたたちは人間として生きるために、もっと大事なもの、霊の糧を求めよと聖書は言う。しかし、人は反論する「人はパンのみによって生きるのではない。それは正しい。でも、パンがないと生きることは出来ない。だから、まずパンが欲しいのだ」。まず、パンが必要なのだと思うとき、生きるためのあらゆる行為は正当化される。私たちは言う「この社会は生存競争なのだ。勝たなければパンを食べることは出来ないのだ」。その戦いに勝ってパンを食べても、少しもおいしくない。人はパンだけで生きる存在ではないからだ。パンは食べてもすぐに空腹になる。私たちの欲望は満たされても、すぐに満足できなくなる。石をパンに変えても、何も生まれないのだ。

3.石をパンに変えても、何も生まれない

・申命記の言葉をもう少し読んでみよう。申命記8:4からだ。「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる」(申命記8:4-7)。

・「人はパンだけで生きるのではない」、食べ物が豊かにある私たちは、苦労せずに言える。パンがある時に、「パンだけで生きるのではない」と言うことは簡単だ。試練のない時に「試練は神からの祝福だ」と言うことも簡単だ。しかし、目の前からパンがなくなり、飢えている時に「人はパンだけで生きるのではない」と言えるか。苦しみの出口の見えない時に「試練は祝福だ」と言いきることが出来るか。ここに信仰の問題が問われている。「あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる」、この神の愛を信じ切ることが出来るかという問題だ。私たちの教会は、今年で35年周年を迎える。35年も経ったのに、小さい群れのままだ。小さいから、いろいろな不足が生じる。私たちは神に文句を言う「35年も頑張ったのに、何故私たちの教会は小さいままなのですか」。神は答えられる「何故、イスラエルの民は40年間も荒野をさまよう必要があったのか。誰が民を養っているかを知るためであった。あなたたちの教会はまだそれを知らない。だから、試練は続くのだ」。人間の側から見た苦難は、神の側からみれば試練・訓練だ。神は私たちをよい地に導きいれるために、今荒野を歩くことを命じておられるのだ。私たちは教会の現実を訓練の時として受け容れよう。

・人はパンだけで生きるものではないとイエスは言われた。そして、イエスは「私は身をもってそれが事実であることを示そう」と言われた。イエスは十字架にかかって死ぬ必要などなかった。仮に反対派がイエスを捕らえようとするのであれば、逃げることも出来た。あるいは、当局ににらまれないように、言動を控えることも出来た。しかし、イエスは敵の待つエルサレムに行かれ、十字架で殺された。十字架に架けられたイエスに人々は言った「神の子なら自分を救え。今すぐ十字架から降りるが良い。そうすれば、信じてやろう」(マタイ27:42-43)。イエスは最後まで試練を受けられたのだ。もし、イエスが誘惑に負けて、十字架から降りられたら、何が起こったのだろう。人々は驚き、イエスを崇めたかも知れない。でも、それだけだ。イエスは私たちとは無縁の存在であっただろう。イエスは言われる「パンが足りないという現実から逃げるな。石をパンに変えても何も生まれないのだ。苦しみがあっても耐え忍べ。試練は神が下さる祝福なのだ。40日はやがて過ぎる、40年もやがて過ぎる。その時、試練によって、あなたがたはたくましくなっているのだ」と。

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