1.メシアが生まれたという知らせ
・キリストの降誕を待ち望む待降節が終わり、今日から降誕節に入る。キリストが来られて何が起こったかを思う時である。マタイは、イエスの誕生の時、東方の学者たちが、数千キロを旅してベツレヘムに至り、イエスを拝み、贈り物を捧げたと記す。クリスマスの飾り付けには、必ずこの三人の博士たちが登場するし、クリスマス・ツリーの一番上には、彼らを導いた「星」が飾られる。子供たちが演じるクリスマス劇でも「星に導かれて三人の博士たちが、らくだに乗って、砂漠を越えて、キリストに会いに来る」とする。メルヘンの世界だ。
・しかし、聖書は、キリストが生まれられて、人々はメルヘンの世界に入ったのではないと記す。今日の聖書個所マタイ2:3には、キリストが生まれられた事を聞いて「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」とある。ある人々は、キリストの誕生を喜ばないどころか、不安を感じた。この不安がやがて、恐ろしい出来事を引き起こす。今日は、マタイ2章をもとに、キリストの誕生を当時の人々がどのように迎えたかを学んで見たい。
・イエスが生まれられたのは紀元前6-7年ころと言われている。この時、天体に大きな異変があった事が報告されている。魚座の木星と土星が重なり合って、異様な輝きを示したと言う。今日の天文学では、その出来事は798年に一度の出来事と確認する。当時の天体観測の本が発掘されており、それによれば、土星は世界の救い主、木星はパレスチナを指す。木星と土星が重なり合う、この出来事を天体の観測を仕事とする占星術師たちは、「パレスチナに世界を救う王が生まれた」と解釈した。その啓示を受けて、彼らはらくだに乗り、遠いユダヤまで旅をした。ユダヤに王が生まれたのでれば、ヘロデの王宮に違いない、そう思った彼らは、エルサレムの王宮を訪ねた。しかし、エルサレムの町は静かであり、どこにもメシアの誕生を祝う気配はない。彼らは不審に思いながら、王宮を訪ねて聞いた「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)。
・この質問は王ヘロデを不安にさせた。何故ならば、彼は元々ユダヤ人ではなく、異邦人であり、己の武力とローマの後押しで、ユダヤのハスモン王家を倒して王になった人物であった。彼の権力基盤は磐石ではなかった。「新しいユダヤの王が生まれた」、その言葉にヘロデは、自分に取って代わる王の出現を見て、不安を感じた。王宮にいた人々も不安を感じた。ヘロデは残虐な王であり、これまでもハスモン家から迎えた自分の妻を殺し、息子たちさえも王位を狙っているという疑いから殺し、そのたびに多くの人の血が流れていた。「メシアが生まれた」、エルサレムの人々にとってそれは新しい騒乱の種が蒔かれたことであり、人々は不安を感じた。
・ヘロデは祭司長たちや律法学者たちを集め「メシアはどこに生まれるのか。聖書は何と言っているのか」と訊ねた。学者たちはミカ書を引用して、それは「ベツレヘムです」と答えた。ヘロデは占星術の学者を呼び、ベツレヘムであり、行ってその子のことを詳しく調べ、わかったら教えて欲しいと頼み、彼らをベツレヘムに送り出した。学者たちはベツレヘムに向かった。ベツレヘムは、エルサレムの南7キロのところにある小さな村で、彼らは生まれたばかりの幼子を探して歩いた。星が彼らを導き、一軒の家に前に止まった。彼らはそれを見て、ついにメシアに会えることを喜んだ。家に入り、母に抱かれた幼子を礼拝し、黄金・乳香、没薬を捧げた。彼らはその夜はベツレヘムに泊まったが、夢の中で「ヘロデのもとには帰るな」との知らせを受けたので、別の道を通って自分たちの国に帰っていった。
2.メシアの誕生をどう迎えるか
・今日の招詞にヨハネ黙示録21:3-4を選んだ。次のような言葉だ「そのとき、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
・この言葉はヨハネが聞いた神の国の到来のしるしだ。今、ヨハネは、皇帝礼拝を拒否したため、島流しになり、教会の友の多くも殺されたり、投獄されたりしている。どこにも出口の無い闇の中に彼はいる。その彼に、神の国が来れば、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」との声が聞こえた。しかし、今はまだその国は来ていない。神の国はキリストが来られて始まったが、まだ完成していない。完成していないから人は闇の中で涙を流す。その闇は世の人々の貪りから来る。ヘロデは「ユダヤ人の王」が生まれたと聞いて不安を感じ、その不安を自らの手で取り除こうとする。マタイ2:16以下の記事は、ヘロデが自分の地位を脅かす可能性のある幼子を抹殺するために、ベツレヘムに兵士たちを送り、2歳以下の男の幼児を探して、すべて殺させたと記す。イエスはその前に、エジプトに逃れて無事であったが、数十名の幼児が殺され、ベツレヘムの村は、子供を殺された母親の嘆きの声で満たされた。
・私たちは、イエスが生まれられた時代はひどい時代だったと思う。ヘロデの時代は血にまみれた時代だ。しかし、歴史が私たちに教えるのは、自分の思いのために子供たちを殺したのは、ヘロデが初めてではないし、ヘロデの後も繰り返し行われたという事実だ。ナチス時代のドイツ人は、ユダヤ人の子供たちを忌まわしい者として殺した。日本人も戦時中は中国の子供たちを殺し、今アメリカ人はイラクの子供たちを殺している。日常に目を向ければ、私たちはこの日本で毎年30万人の子供たちを人工妊娠中絶という形で殺している。望まない妊娠をした時、私たちの大半は、胎内の子を中絶して問題を解決しようとする。自分の地位が奪われるかも知れないとの不安からベツレヘムの子供たちを殺したヘロデと、自分の安定した生活を守るために、胎内の子を殺している私たちとどこが違うのか。ヘロデが闇の中にいたように、私たちも闇の中にいる。闇は私たちの罪の中から流れ出ている。
・聖書が私たちに示すのは、この闇の中に光が現れた。キリストに出会うことによって、私たちは自分が闇の中にいることを知る。そして光を求めるようになる。キリストの誕生は多くの人に示された。示しを受けた東方の学者たちは、遠い道のりを旅して幼子に会い、喜びに満たされた。宮中の祭司長たちは、メシアがどこで生まれるかを知り、その場所がエルサレムの近くだと聞いても行動しなかった。自分の生活を優先したからだ。
・マタイ2章の記事は、私たちに大事なことを伝える。御言葉をいくら学んでも、信じて従うことをしない限り、光は見えない。救い主が来られても信じない限り、私たちには無縁だ。しかし、信じる時、救いの出来事が起こる。東方からの学者たちは「その星を見て喜んだ」。メシアが来られた、神の国が始まった、それは信じる者には、闇はいつか終わる事を知らせる喜びの知らせだ。しかし、信じないものには不安をもたらす出来事、闇がさらに深くなる出来事になる。闇を終わらせるのは、東方の学者たちのような信仰だ。恐るべき人間の罪の現実の只中にさえ、神の御旨が行われ、闇が光に変わっていく。この暗さの中に光があることを信じていく信仰だ。
・フイリピンにネグロス島という島がある。かって島の大半はサトウキビのプランテーションであり、島民の多くは、農場や工場で働く労務者だった。1980年代の初め、砂糖の国際価格が暴落し、農場や工場が閉鎖され、人々は解雇され、子供たちが栄養不足で死んでいく出来事が起きた。ユニセフの「ネグロス島飢餓宣言」を受けて、日本・ネグロス委員会が組織され、救援活動を始めた。最初は食糧援助であったが、それではまた同じことが起きる。彼らは島民が自立できる「もう一つの道」を模索し始め、島の特産品であるバランゴン・バナナを日本の消費者に直接売ることを検討した。その価格の中には自立支援金を組み入れられ、そのお金を用いて農機具やトラクターを買う。いくつかの生活協同組合が趣旨に賛同し、無農薬バナナとして売り出され、現在では養殖えび等も事業化されている。彼らは事業を行う会社の名前をオールター・トレード・ジャパンとした。もう一つの道(オルタナテイブ)を行く貿易(トレード)の会社と言う意味だ。イエス・キリストに出会って変えられた占星術の学者たちが「もう一つの道を通って」(マタイ2:12)帰ったように、私たちもキリスト者としてなすべきことをしようと志した人たちの群だ。「一人の人間の命を救う者は、全世界を救う」。「この小さな者にしたことは私にしたことである」という声に促されてなす行為が、世の闇を跳ね除け、光をもたらすものであることを信じて、新しい年を迎えよう。私たちは無力ではない。既にキリストは来られたのだから。