江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年12月19日説教(マタイ1:18-25、インマヌエル、共にいます方)

投稿日:2004年12月19日 更新日:

1.イエスの生誕

・今日、私たちはクリスマス=キリストのミサ、キリストの誕生をお祝いするために、教会に集まった。そのキリストが、どのようにして生まれられたかをマタイ福音書1章は述べる。しかし、マタイは、私たちにとって理解することが難しいことを平然と述べる。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(1:18)。聖霊により身ごもる。マタイは、普通の人にとってはつまずきになるであろう言葉を、何の説明もなしにここに述べる。

・人は通常は父と母から生まれる。ヨセフはマリアのいいなずけであったが、まだ婚約中で、同居していない。その婚約者が身ごもった。人間的に見れば、マリアが姦淫を犯したと考えざるを得ない。ヨセフもそう考えて、マリアとの婚約を解消しようとした。しかし、夢の中で主の使いが現れ、ヨセフに「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(1:20)と述べ、その後で、ヨセフがマリアを妻として迎え入れたことをマタイは記す。

・現代の私たちが「聖霊による懐妊」につまずくように、ヨセフもつまずいた。聖霊により身ごもるとは、人間的に見れば理解することが難しい問題だ。それは信仰的にそれを受入れるしかない。しかし、多くの人が疑問に思うのは、神は何故、人がつまずくような方法で、イエスをこの世に遣わされたのだろうかということだ。クリスマスの今日、イエスの誕生の意味をご一緒に考えてみたい。

・考えるヒントが、この誕生物語の前に置かれているイエスの系図のなかにある。そこには、意味のわからない、無味乾燥な人の名前が羅列されている。ある人はそれを「列車の時刻表のようだ」と言った。しかし、列車の時刻表に意味があるように、この系図にも意味がある。この系図の中には4人の婦人の名前が記されている。いずれも旧約聖書に出てくる名前だ。最初のタマルはエルという人の妻となったが、エルが死に、当時の習慣に従って、弟の妻となった。しかし、その弟も死んだ。舅のユダは、次の子も死ぬのではないかとおそれ、タマルを三男の嫁にせず、実家に戻した。子を産まずに実家に戻されることは、当時の女性にとって最大の屈辱だった。タマルは、遊女を装って舅ユダに近づき、子を産んだ(創38章)。彼女は子を生むために姦淫を犯した。

・次のラハブはエリコの遊女だった(ヨシ2:1)。彼女はイスラエル軍のエリコ攻略を助け、その褒章としてイスラエル軍の武将を夫として与えられた(ヨシ6:22‐25)。しかし、彼女の前身は遊女だった。世間的にみれば、汚れた女である。三番目のルツはモアブの女で、夫は早く死に、姑を助け、やがて夫のいとこと結ばれて、子を産んだ(ルツ4章)。ルツはユダヤ人の嫌う異邦の女であった。最後のバテシバはウリヤの妻であったが、夫ウリヤが戦場にいる時ダビデ王に召し入れられて妊娠し、ダビデはウリヤを殺しバテシバを自分の妻とした。バテシバはソロモンを産んだ(〓サム11‐12章)。彼女は夫を殺したダビデによって子を得た。

・古代の系図は、通常は男性だけで構成される。それにも関らず、イエスの系図の中には、4人の女性の名が入っている。また、女性を入れるにしても、サラ(アブラハムの妻)、リベカ(イサクの妻)等賞賛されるべき女性はたくさんいるのに、何故、異邦人であり、また性的不道徳が批判されかねない女性たちがあえて選ばれている。マタイは、世の人々が恥とし、不名誉とし、引け目とする出来事をも、神は受け入れてくださり、清くしてくださる、そのためにキリストを遣わされたという信仰をここで告白している。

・人間の歴史は罪の歴史だ。系図はまさにそれを示す。その罪の系図を断ち切り、購うために、神はその一人子を罪の只中に遣わされた。神は人間の生誕にまつわる全ての悲惨を、キリストの上に置かれた。もし、ヨセフがマリアを受入れなければ、マリアとその子もまた悲惨さの中に放り込まれたであろう。どうすればその悲惨をいやすことが出来るのか、それは神に働きかけられた人の善意以外にはないことを示すために、神はヨセフを用いられた。

2.神共にいます

・今日の招詞にマタイ9:12−13を選んだ。次のような言葉だ。「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が求めるのは憐れみであって、いけにえではないとはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである』」。

・ヨセフは生まれた子を「イエス」と名づけなさいと命じられた。イエスとはヘブル語ではヨシュア=神は救いたもう、の意味である。ヘブル語ヨシュアがギリシャ語イエスースになり、それがイエスになった。その名が示すものは、たとえ私たちの両親が、タマルやバテシバのような罪人であっても、否、私たち自身が肉の欲の命じるままに罪を犯さざる弱さを持っていても、神は私たちの弱さを理解し、受け入れ、救って下さることを、身をもって示すために、イエスという名前がつけよと言われたのだ。神が求めておられるのは、私たちの罪を裁くことではなく、私たちがイエスを通して清められることだ。だから「神は救いたもう」という名前をつけるように命じられた。

・次に神は、この子供は「インマヌエル」と呼ばれるであろうと言われた(マタイ1:23)。インマヌエルはヘブル語で、「神共にいましたもう」という意味だ。神はあなた方を見捨てない。どのような悲惨さがあなたがたの人生にあっても、神はそれを受け入れ、いやしてくださる、神がそのような方であることを、この生まれる子は証しするであろうと主の使いはヨセフに言った。クリスマスに起きたことは、「イエス=神救いたもう」という名の子が私たちに与えられ、その子は「インマヌエル=神共にいます」ことを約束する子だとの祝福である。Spのためにキリストが神の祝福として来られた。マタイはそう言いたいのだ。

・人生には悲惨な出来事が多い。先週、「戦場のピアニスト」という映画をテレビで見た。第二次大戦下のポーランドを舞台にした映画で、ワルシャワに住むユダヤ人ピアニストが、ナチス・ドイツの占領下で奇跡的に生き残った物語だ。シュピルマンという実在の人の伝記を基にしている。当時、ユダヤ人というだけでゲットーに押し込められ、強制労働につかされ、大量虐殺されて行った。その不条理の中にあっても、主人公は生きる希望を失わない。神共にいますという信仰を与えられているからだ。泥水をすすっても行きぬくという主人公の信仰の中で、周りの人も彼を助け、最後には敵であるドイツ軍将校の援護を得て、彼は生き延びる。その将校は彼に言った「君がこの5年間、この地獄を生き延びてきたのなら・・・それは明らかに、生きよという神の思し召しではないか。そうだろう、そう信じるしかないじゃないか」。

・「神共にいます」、この信仰に私たちも招かれている。シュピルマンが経験した出来事は悲惨だ。しかし、その悲惨の中に多くの善意があり、その善意により彼は生き延びた。映画の後、その基になった伝記を読んだ。そのあとがきに次のような文章があった「ポーランドには350万人のユダヤ人がいたが、24万人はナチス時代を生き延びた。そのユダヤ人を救うために30万人のポーランド人が命をかけた」。神は共にいましたのだ。マザー・テレサが見たのも、悲惨の中に共にいます神だった。彼女はカルカッタの修道院付属の学校教師であったが、ある時道端で死につつある老人の顔の中に、キリストの顔を見た。「この小さい者にすることは私にすることである」と呼びかけるキリストの声を聞いた。彼女はその老人を病院に運ぶが、どこも受入れてくれない。彼女は自宅でその老人の死を看取る。やがて、彼女は修道院を出て、死にいく者を看取るための家を借り、活動を始める。やがて彼女の教え子達が彼女を助け始め、今日では数千人の人がその活動を継承している。ポーランドの戦場の中にも、インドの貧困の中にも、神は共におられる。インマヌエル、神共にいます、このことを知ることにより、人生の意味は異なってくる。

・今日、私たちは応答讃美としてベートーベン自らが詩を書いた喜びの歌(新生讃美歌21番)を歌う。彼はその歌を失意の中で書いている。音楽家にとって命というべき聴力を失い、祖国はかって彼が世界の解放者と考えたナポレオンの侵略の中にあった。その絶望の中で、彼は次のように歌う。「友よ、これまで演じてきた調べではなく、もっともっと、喜びに満ちた歌をうたおう!歓喜。それは神の輝き。それは楽園の乙女。あなたはこの世が散り散りにしたものを結びつけ、すべての人間たちを兄弟となす。…この世界に生きるものすべては自然の恵みより生まれ、良き人、悪人、虫けらでさえも歓喜が与えられる」(訳、藤田正)。神共にいます、クリスマスを祝うのにふさわしい歌だ。

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