江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2003年4月6日説教(ルカ20:9-19、十字架と私たち)

投稿日:2003年4月6日 更新日:

1.ぶどう園と農夫の例え

・イエスはエルサレムの神殿の境内で、集まって来た民衆に教えられていた。そこに祭司長や律法学者が来て「あなたは何の権威で人々に教えているのか」と問い掛けた。あなたはラビ(教師)としての学びもしていないのに、何の権威で人々に教えるのかとイエスを責めた。それに答えてイエスが話されたのが「ぶどう園と農夫の例え」である。こういう話だ。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。」(ルカ20:9-12)。
・旧約聖書では、イスラエルの民はぶどうに例えられる(イザヤ5章他)。イエスが話された意味は明確だ。ぶどう園はイスラエル、主人は神、農夫たちはイスラエルの指導者だ。神はイスラエルの民をご自分の民として選ばれ、契約を結ばれて、王や祭司にその管理を委ねられた。長い時が経ち、民がどのように実を結んだのか、その収穫を求めて、神は僕(預言者たち)を送られた。しかし、イスラエルの民は預言者たちの言葉を聞かず、これを迫害して追い出し、次には侮辱してたたき出し、最後には傷を負わせて放り出した。ぶどう園の主人である神は考えられた。「今までは僕を送ったので、彼らが私の使いであることに人々は気づかなかったのだ。今度は私の一人息子を送ろう、この子なら彼らもよく知っているから、敬ってくれるに違いない」。そして、神は一人子イエスを地上に送られた。しかし、農夫たちはイエスを見て、「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。」としてこれを捕え、十字架につけて殺してしまった。(ルカ20:14-15)。
・当時のユダヤでは農地の大部分は大地主たちが所有し、農民たちは小作人として働いていた。小作人は収穫の3割から5割を小作料として地主に支払う。しかし、この例えの小作人たちは考えた。跡取り息子を殺せば、ぶどう園は所有者がいなくなり、小作人として働く自分たちの物になる。彼らは跡取り息子を、即ち神の子を殺してしまった。そのように、あなた方は父から遣わされた私を殺すであろうとイエスはここで言われている。

2.他人より優越したいと願う人間の罪

・この話では、主人から農園を預けられた農夫たちが、自分たちは貸与、借りているにも関わらず、それを自分のものにしようとして息子を殺す。主人が神で農夫が人間であるから、ここで言われていることは、人間の生は神からの貸与物なのにそれを自分の物にしようとする、そこに罪があるのではないかということだ。言い換えれば、人間の罪とは、神に対し、隣人に対し、家族に対して、自分が主人公になろうとすることだ。その時、他人のものも奪い取ってしまう。ヤコブは言う「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(ヤコブ書4:1-3)。
・古川さんから「ほんとうにたいせつなもの」という絵本を教会の子供たちにいただいた。マックス・ルケードというアメリカ人の牧師が書いた評判の絵本だ。読ませていただいて、とても興味深かった。次のような話だ。
「ウィミックという村があり、そこには木で作られた小人たちが住んでいた。ある時、その村で箱とボールを集めるのがはやった。最初はただ集めて楽しんでいるだけだったが、一人が新しいきれいな箱を買ってそれをみんなに自慢したことから、みんなが競って新しい箱を買い始め、その大きさやきれいさをお互いに自慢するようになった。主人公のパンチネロもその競争に加わり、最初は貯金箱からお金を集めて小さな箱を買ったが、他の人が大きな箱をたくさん持っているのを見て悔しくなり、一生懸命に働いてお金を稼ぎ、もっと大きな立派な箱を買った。しかし、他の村人はパンチネロの二倍も三倍もの箱を持っている。パンチネロは負けまいとして今度は寝る間も惜しんで働いてもっとお金を稼ぎ、たくさんの箱を買った。彼は箱を見せびらかすために腕一杯に箱を抱えて歩き、腕がしびれても持ち続けた。寝ていないのでふらふらになっていたが、村人がそのパンチネロを見て、「あの子はたくさん箱を持っている。きっと立派なウィミックに違いない」と言うのを聞き、彼の胸は誇りで一杯になった。パンチネロはもっと箱を買うために、最後は家さえも売ってしまう。ある時、パンチネロは箱をたくさん持ち過ぎたため、目の前が見えなくなり、転んで箱が皆こぼれた。その時、パンチネロは気がついた「自分は一体、何をしているのだろう」。
・これは絵本だ。たとえ話だ。でも真実をついている。私たちはブランド品を欲しがり、ブランド名のある大学に入り、ブランド力のある会社で働きたがる。この絵本を笑えない。私達の本能的願いは他者に優越することだ。他の人の持っていないものを欲しがり、自分のものでないものも欲しがる。そのむさぼりが他者を傷つけて行き、争いを起こす。ぶどう園で働く農夫たちはぶどう園の所有者ではないのに、それを自分のものにしたいと願い、主人が送ってきた僕を袋だたきにして追い返し、最後には主人の一人息子を殺してぶどう園を自分のものにしようとした。これが罪だと聖書は言う。罪とは自分が主人公になろうとすることだ。その時、他者は見えなくなる。たとえ愛から出た行動であっても、自分が主人公になろうとする時、良いことも悪いことになる。例えば過保護という行為は子供を心配する愛から出ているが、その本質は子供に対して自分が主人公になろうとする、自分の求めるような子になることを強制するむさぼりから生じる出来事なのだとルカは教える。

3.悪を善に変えられる神

・しかし、神はこの人間の罪、人間の悪をも善に変えて用いられる。今日の招詞に詩篇118篇22-25節を選んだ。
「家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。」
・人々はイエスを役に立たない石として捨てる。人々が求めていたメシヤは、ユダヤをローマの支配から解放してくれる地上の王だったが、イエスは王になることを拒否された。人々は地上の問題、自分たちの欲求を解決してくれないイエスなど要らないとして十字架につける。しかし、人々が十字架につけたそのイエスを神は死から復活させる。その復活を通して、人々はイエスが神の子であることを知り、自分たちが罪の故に神の子を殺したことを気づかされ、悔改める。その時、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となる」。人々の捨てたものが人々を救うものになる。
・私たちは自分たちだけでは、この罪の縄目から自由になることは出来ない。私たちの罪、自分が主人公になりたいという原罪はあまりにも重たいのだ。イエスは捕えられる前の晩、弟子たちと最期の食事をとられたが、弟子たちはその席上でも「誰が一番偉いのか」と論じ合っている(ルカ22:24)。イエスと三年間寝食を共にしてもこのような状態なのだ。教会でさえ、まだ完全には解放されていない。教会の中にも争いがあり、牧師と信徒、あるいは信徒同志の勢力争いがある。だから教会は分裂し、民は散らされる。私達の教会もいやと言うほど、それを経験した。それでも、教会は死なない。どん底まで落ちた時、十字架を見つめるからだ。十字架以外には人間の罪の縄目から人を解き放つものは無いことを知っているからだ。イエスは言われた。「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(マタイ20:25-28)。イエスは命を投げ出して、私たちに仕えることの意味を教えられた。
・他人を支配しよう、他人より上に立とうとする私達の欲望は根源的なものだ。それは私たちだけでは克服することの出来ないが、ただ十字架を見つめた時だけ、イエスが私達のために死んでくれたことを思う時だけ、私たちは罪から自由になる。そして、私たちが自分に死んだ時、心の中からむさぼりが無くなり、その結果他者との争いもなくなり、平安が与えられる。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となる」、正に十字架こそが私達の生きる基盤なのである。

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