1.聞く人と行う人
・多くの宗教は「人は行いによって救われる。善行を積めば天国にいける」と教える。しかし、聖書は言う「正しい人、義人などいない。救いは人間の力でもたらされるものではなく、あくまでも神の恵みによる」(ローマ3:10)。これがパウロの言う「信仰義認―信仰のみ」の教えだ。しかし、パウロのこの福音理解が「だから何をしても良い、全ては許されている。救いは人間の行為には拠らないのだから」という誤解を教会の中に生んだ(1コリント11:23)。それはおかしいと使徒ヤコブは言う「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(ヤコブ1:22)。そして、具体例を挙げて、人々の信仰を問うた。それがヤコブの手紙だ。
・2章に二つの具体例がある。最初は「教会に金持ちが来た時」についてである。初代教会は貧しい人たち、特に奴隷や日雇い農夫を中心に形成され、身分の高い人や家柄の良い人は少なかった(1コリント1:26)。教会に上層階級の人が来た。金持ちであっても、イエスの福音に惹かれる人たちはいた。メンバーは喜んで彼を迎え、『あなたは、こちらの席にお掛けください』」と良い席に案内した。その時、みすぼらしい服装の人も一緒に来たが、集会の人たちは彼に「あなたは、そこに立っているか、私の足もとに座るかしていなさい」と言った(ヤコブ2:2-4)。社会的身分によって人を差別するという現実が当時の教会の中にあった。ヤコブは言う「人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます」(2:9)。
・私たちはこれが架空の話だとは思わない。現在の教会でも同じ出来事が起こっているからだ。教会の中に有力者とそうでない人の区別があり、たくさん献金する人は貴ばれ、奉仕に熱心な人の発言力は大きくなる。教会はキリストを頭と仰ぐ共同体であり、そこにあっては「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ 3:26-28)と言われるところだ。しかし、現実は違う。ヤコブは言う「世の中には偉い人とそうでない人、支配する人とされる人の区別がある。しかし、もし教会の中にそれがあるならば、あなた方はイエスの福音をないがしろにしている。あなた方はイエスの言葉を聞いても、それを行っていない」と。
・二番目の例は2章14節から始まる。食べる物もなく、着る物にも事欠く貧しい人が教会に援助を求めてきた。人々は彼に言った「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」(2:16)。しかし、それ以上のことはしようとはしなかった。求めたのは食べ物であり、着物であったのに、与えられたのは言葉だけであった。ヤコブは問う「言うだけで体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」。信仰と行いは分離できないものだ。信仰はそれに押し出されるように行為を生む。良い地にまかれた種は成長して30倍、60倍の実を結ぶ。もしあなたが何の良い実の結ばないとしたら、あなたの信仰はゆがんでいるのだと。
2.信仰と行為
・イエスも行為を伴わない信仰は、砂の上に家を建てるように、嵐が来るとすぐに流されてしまうと言われた(マタイ7:26-27)。聞くだけでは信仰は育たないのだ。ヤコブは言う「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます」(ヤコブ1:23−24)。御言葉が力になるのは、それを実践した時だ。
・今、私たちの手元に一個のパンがあり、私たちの前に、食べる物がない人がいるとしよう。もし私たちが「このパンは私に必要なので、あなたにあげるわけにはいかない」として、その場を立ち去ったら、私たちはその人と何の関わりも持たないし、私たちが変えられることもない。もし私たちが自分のパンを二つに割ってその片方を相手に差し出したときには、変化が始まる。私たちはひもじさを通じて、相手の苦しみを知り始める。ここに他者との出会いは始まるが、まだ信仰の行為とはいえない。キリストを知らない人でも出来るからだ。私たちが今手元にあるパンを全部相手に上げたとき、信仰の冒険が始まる。相手に全部を上げたら、私たちの食べる分がない、私たちが今度は飢えるかもしれない。それでも与える。何故ならば神は私たちを養ってくださると信じるからだ。「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。・・・あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」(マタイ6:31−32)。自分を養ってくださるという神の約束に、自分の生存をかける。そして必要なものを与えられた時、信仰が私たちに根付き、私たちを生かすものになる。信仰とは自分の境界線を越える行為なのだ。
・人は言うだろう「全部を差し出すことが必要なのか。そんなことは出来ない」。信仰者であっても、人間である限りできないのは事実だ。しかし、出来ないことに留まるのではなく、出来るように祈れと言われている。
3.礼拝と実践
・ヤコブは続ける「孤児や、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」(1:27)。ここに信心とあるのは原語では「トウレースコス」という言葉だが、信心よりも礼拝と訳したほうが良い。ヤコブは礼拝とは孤児ややもめの世話をすることだと言っている。しかし、ヤコブは日曜日の礼拝を軽視しているのではない。逆に日曜日に教会に集められ、御言葉を聞くことが最も大事だと言っている。聞くことが最初だ。ヤコブが「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」(1:19)と語るのはそういう意味だ。聞くに早く=神の前に耳を傾ける以上に大事なことはない。その時話すに遅く=自分の思いを語るな、神の言葉に語らせるために聖書の前で静まれ。そして怒るに遅く=熱狂的になるな、感情的になるな、冷静に聞け。こうして、私たちは日曜日に御言葉をいただき、それを覚えて、月曜日からこの世の生活に入る。そして月曜日から新たな礼拝、生活の中に置ける信仰の実践という礼拝が始まるのだとヤコブは言う。今、私たちの最大の問題は、日曜日に聞いた神の言葉が月曜日からの生活に何の影響も及ぼさないことだ。私たちが信仰していても、毎日の生活が何も変わらないとしたら、何になるのかとヤコブは問いかける。
・今日の招詞にマタイ25:37−40を選んだ。次のような言葉だ。「すると正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである』」。
・「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしたのだ」、これが月曜日から始まる私たちの礼拝だ。この一つ一つの実践を通して、私たちは神の民にさせられていく。前に見たように、パンを相手に全く与えない時に、私たちには何の変化も生じない。パンを半分与えた時、私たちはひもじさと共に喜びを感じる。パンを全部与えた時、私たちは「父なる神が私たちを養いたもう」ことを信じる者とされる。「御言葉を行う人になりなさい」、この一週間、毎日この言葉を覚えて生活してほしい。何かがそこに生まれていくはずだ。