1.ルワンダで起きたこと
・「ジェノサイドの丘」という本を読んだ。中央アフリカ・ルワンダで起きた大量殺戮をルポし、ベストセラーになっているとの新聞書評を見て、図書館で借りて読んだ。ルワンダは長い間ベルギーの植民地であったが、植民地時代は少数派のツチ族が多数派のフツ族を支配していた。独立後、多数派フツ族が政権に就いたが、94年にフツ族の独裁者が暗殺されたのを契機にツチ族に対する迫害が始まった。国内ではツチ族とフツ族は混住して住んでいたが、突然にツチ族の人々は隣人のフツ族の襲撃を受け、家族が殺されていった。何百年も共に暮らしていた人々が、ある日を機会に突然に隣人を殺し始める悲劇を著者はレポートする。原題は「我々も明日殺されるかも知れない」である。
・ある民族が突然に隣人の他民族を殺し始めることは歴史上珍しくない。ユーゴスラヴィアで起きた出来事もそうだ。ユーゴスラヴィアでは第二次大戦後に複数の民族で共和国を形成してきたが、91年のソ連崩壊と共に争いが始まり、最初はクロアチアで、次にはボスニアで殺し合いが始まった。ボスニアでは諸民族が混在して住んでいたが、ある日を境に隣人が殺人者となり、仕返しにその隣人を殺し返すジェノサイド(大量殺戮)が始まった。ユーゴスラヴィア内戦は国連の介入により終わったが、先のルワンダの悲劇は誰も関心を持たなかったことだと著者は言う。ルワンダ駐留の国連軍士官は言った「たかがアフリカ人が殺し合いをやって100万人が死んだだけではないか」。
・人々は自分に関係のない他者の悲劇には関心を持たない。自分が当事者にならない限り、それは遠い国の出来事だ。ユーゴスラヴィアは同じヨーロッパ人だったので、西欧社会は関心を持ち、関与した。アフリカの小国で起きたことは、彼らの関心事にならない。しかし、神は関心を持たれる。神は弱い人々が弱さゆえに抑圧されることを許されない。それを示すのが、イスラエルの律法だ。今日、読む出エジプト記22章はそのイスラエルの律法の精神を如実に示す箇所だ。
2.決疑法と断言法
・イスラエル法のあるものは決疑法と呼ばれる。「もし・・・ならば、彼は・・・しなければいけない」と言うもので、世俗の刑事・民事の争いを扱う。例えば出エジプト記22:5「火が出て、茨に燃え移り、麦束、立ち穂、あるいは畑のものを焼いた場合、火を出した者が必ず償わねばならない。」とか、22:15「人がまだ婚約していない処女を誘惑し、彼女と寝たならば、必ず結納金を払って、自分の妻としなければならない。」と言うのが決疑法の典型だ。イスラエルがカナンの地に入った時に、その地の慣習法を自分たちの中に取り入れたものだ。
・イスラエル法には他に「あなたは・・・しなければならない」という断言法がある。これは神からの呼びかけに基づく法で、他の国々には類例がない。この断言法で書かれた法がイスラエルの律法の中核になっている。出エジプト記22:20以下に定められたのは、この断言法に基づく法である。20節は言う「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである」。寄留者とは外国に住む異邦の民で、彼らはその地に生活の根を持たないから、圧迫を受けやすい。法は定める、たとえ他の人たちが寄留者を虐待し、民族が違うと言う理由で殺し始めても、あなた方はそうしてはならないと。
・イスラエルの法では「寄留者を虐げるな」という戒めが繰り返し語られる。出エジプト記22:20の言葉は23章でも繰り返される。「あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持を知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである」(出エジプト記23:9)。あなた自身がエジプトで寄留者として苦しめられたのだから、寄留者を憐れむのが当たり前ではないかと言われている。
・現在でもイスラエル人は毎日旧約聖書を読む。旧約聖書はユダヤ教徒にとって唯一の聖典だ。しかし、聖書を読んでもそれを行わない時、それは聖書を読んでいるとは言えない。第二次大戦中、ユダヤ人はナチス・ドイツの迫害に苦しみ、600万人が殺された。世界はそのユダヤ人に同情し、パレスチナの地に国を再建することを認めた。それが現在のイスラエルだ。周りのアラブ人はそれを認めず、イスラエルは長い間戦って国を守り抜いた。そして今イスラエルは強者となり、弱者になったパレスチナ人を抑圧し始めた。自分は神の憐れみを受けて国を再建することが出来たのに、強者になった今は弱者を虐げている。イスラエル人は聖書を読みながら、神の言葉に目をつむっている。しかし、それにもかかわらず神の言葉は生きて、私たちに行動を迫る「あなたは寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである」。
3.聖なる民になれ
・寡婦や孤児を苦しめるなとも繰り返し言われる。彼らには世帯主の保護がなく、人々の情けに依存しなければ生きることが出来ない。「私はエジプトで抑圧に苦しむ声を聞いた。だから、ここでも苦しむものの声を聞く」と神は言われる。「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼が私に向かって叫ぶ場合は、私は必ずその叫びを聞く」(出エジプト記22:21-22)。そして「寡婦や孤児を苦しめるものは私が剣で殺す」とさえ神は言われる(22:23)。あなたが死ねばあなたの妻は寡婦となり、あなたの子は孤児になるのだ。あなたの妻や子が生きていけるのは、私があなたを憐れんでいるからではないか。それなのにあなたは何故彼らを憐れまないのか。神の憐れみはこのような激しさを持つ。神は言われる「あなた達は異国の地で隷属にあえいでいた。そのあなたたちを私は救った。あなた方はエジプトで苦しんだからエジプト人のように人を支配してはいけないのだ。もし、あなた方が貧しいものをひどく扱うならば、それは私の救済行為を否定するものだ」と。
・この神の命令は抽象的に寡婦や孤児を愛せと言う命令ではない。それは具体性を持つ。後の時代に作られた法である申命記24章には次のような規定がある。「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。・・・オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。・・・ ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい」(申命記24:19-21)。その命令の後には必ず次のような言葉が続く「あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。」と。
・イスラエルはかってエジプトで奴隷であり、抑圧の中に苦しんでいた。神がそのイスラエルを救出し、人間の支配者からの自由をこの民に与えた。そして今、イスラエルは支配者になることが出来る立場になった。そうである以上、エジプトのように他者を支配し、その支配の上に自分たちの生活を築くことを止めよと神はイスラエルに言われる。自分が苦しんだのだから他者の今の苦しみを見よと。
・今日の招詞にマタイ20:25-27を選んだ。次のような語句だ。
「イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。』
・私たちは日曜日に教会に集まって聖書を読み讃美する。それは礼拝の基本だ。しかし真の礼拝は月曜日から始まる。月曜日に私たちが日常生活に戻り、世の人々と同じように自分と違うものを排除したり、自分を嫌うものを呪ったりしたら、私たちは真の礼拝から外れるのだ。隣人とはモーセの時代には寄留者や寡婦であり、イエスの時代は取税人や娼婦であり、私たちの時代には自分たちの嫌いな人たちなのだ。「自分の嫌いな人を愛せ、何故ならば私はあなたの罪にもかかわらずあなたを愛したからだ」と神は言われている。私たちの目標は「いかにして聖なる者」になるかではない。私たちは既に聖なる者とされているのだ。だから日常の歩みの中で聖なる生活をせよと命じられているのだ