1.祈ること
・イエスが昇天された後、残された弟子たちは、どうしていいかわからなかった。彼らは一同に集まり、神が力を与えてくれるように祈った。教会を造るのは人である。しかし、人は神から力をいただかないと教会を形成できない。だから、彼らは祈った。祈りとは、教会が神に約束を守らせようとする大胆な、ある意味では不遜な行為だ。私たちは主の祈りを祈る。「御国が来ますように」「御心が地にも行われますように」と祈ることは、神が御自身に真実であられ、約束されたものを与えてくださいと求めることだ。私たちが篠崎教会の再建を祈ると言うことは「この教会はあなたが立てられました。今、この教会は弱まっています。あなたが立てられたのですから、あなたが強めてください」と求めることだ。
・私たちは思う、こんな求めをしていいのだろうか。イエスはそのように求めてよいと言われる。ルカは福音書11章で「求めよ」というイエスの言葉を記しているが、その中で「友達が来て何も食べさせるものがないとき、たとえ夜中であれ、隣人の家に行き、寝ている人を起こしてもパンを求めよ。隣人は迷惑であってもパンをくれるだろう。ましてや、あなた方の父はパンをくれないことがあろうか」と言われている。子供が高熱を出せば親は日曜日だろうと夜中だろうと医者のところに行き、開けてくれるまで戸をたたくだろう。子供が死にそうなのだ。人間の親が行う行為を何故、父なる神が行わないことがあろうか。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。・・・あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11:9−13)。
・「困ってどうしようもない時は、父に祈のれ、父は力を与えてくださる」、イエスの弟子たちはその言葉に頼り、祈り続けた。そして、その祈りに答えて、約束のもの、神の力、聖霊が与えられた。それが今日、私たちが学ぶ聖霊降臨の日に起こった出来事である。
2.聖霊降臨
・「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒行伝2:1−3)とルカはその日に起こった出来事を描写している。何があったのだろうか。現代の私たちには理解できない表現だ。それを理解するためにはギリシャ語原文を読む必要がある。風の原語はプノエ、霊はプネウマである。また舌はグロッサで、その複数形グロッサイは言葉である。つまり、霊=プネウマが風=プノエのように下り、舌=グロッサが言葉=グロッサイを与えたと言う表現なのであり、特におどろおどろしい出来事が起きたわけではない。風は見えないが感じることが出来るように、見えない聖霊が風のように弟子たちに下り、その霊によって弟子たちに言葉が与えられたという意味である。弟子たちは聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、人々に語りかけた(2:4)。
・イスラエルでは過越祭りのときに、まだ出たばかりの青い麦の初穂を摘んで神に捧げる。それから50日目、すなわち五旬節のころに麦は収穫の時を迎え、収穫祭を行う。それが五旬節、ペンテコステ(ギリシャ語で50の意味)の日である。イエスが十字架につけられ、復活されたのは過越の祭りの時であったから、イエスの復活から50日目にあたる。弟子たちはイエスが昇天されてから10日間、祈り続け、その祈りに答えて聖霊が下った。
・物音にびっくりして人々が集まってきて、弟子たちが自分たちの国の言葉で語っているのを聞き、驚いて言った「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」(2:7−8)。ユダヤは何度も国を滅ぼされ、人々は外国に散らされていった。外国に住むユダヤ人たち(デイアスポラのユダヤ人)は、祭りの時にはエルサレム神殿に参るために帰還してくる。その巡礼のユダヤ人たちが、弟子たちのあるものはアラム語で、別のものはギリシャ語で語っているのを聞いて驚いた。「これは一体どうしたことか」(2:12)、別の人たちは嘲って言った「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」(2:13)。霊の力が宣教を可能にした。その宣教は、周りの人々に、疑問と戸惑いと嘲りを呼び起こした。
3.神の言葉の力
・その人々にペテロが語りかけた。最初の説教である。教会の最初の説教者として立てられたのは、十字架の時にイエスを裏切ったペテロであった。私たちも過去に何度もキリストを裏切っている。神は悔い改めた罪びとを用いて、福音宣教の仕事をお委ねになるのだ。今日の招詞に使徒行伝2:36を選んだ。ペテロの説教の締めくくりの言葉だ。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(使徒行伝2:36)。
・イエスが捕らえられたとき、ペテロは心配になってイエスの後をついて行き、大祭司の屋敷まで行った。中庭に入り、様子を窺っていたとき、女中に見とがめられた「あなたもイエスの仲間だ」(ルカ22:56)。ペテロは激しく否定する「そんな人は知らない」。他の人もペテロを仲間だと言ったが、ペテロは否定した。そして三度目に否定したとき、鶏が鳴いた。ペテロは「この人こそメシア」と慕っていたイエスを裏切った。自分も殺されるかも知れないという恐怖の前に、ペテロは過ちを犯した。ほんの50日前のことである。その50日前、夜の闇の中で女中にさえ、語ることの出来なかった言葉を、ペテロは今公然と群集に対して語り始めた。
・神の霊はちりに命の息吹を吹き込み、人間を創造した(創世記2:7)。今また、霊は臆病であった弟子に命を吹きいれ、いまや大胆に語る賜物を持った新しい人間を創造した。語ることの出来なかった人々が、語るための舌を与えられた。それがペンテコステの日に起こった出来事なのである。ペテロの説教は力に満ちていた。説教に動かされた人々はペテロに聞いた「私たちはどうしたらよいですか」(2:37)。その日に3000人の人が悔い改めてバプテスマを受けた。こんなことが起こるのだろうか。来週、新小岩教会の牧師就任式で祝辞を述べることになったので、新小岩教会40周年記念誌を読んでいたら、このような記事があった「昭和41年10月特別伝道集会、延べ出席者641名、決心者45名」。本当に神の言葉が語られたときには、このような出来事は起こるのだ。
・聖霊は、教会が福音を持って、人々の所へ出て行く力であり、それは当初は戸惑いと疑いと嘲りを招くかも知れないが、やがて人々を根底から悔い改めさせる力を持つ。悔い改めた人々の一つの群れが、ウィクリフ聖書翻訳協会だ。聖書のさまざまな言語への翻訳を進めている団体である。世界には約6000の言語があるというが、聖書が翻訳されているのは2200言語であり、まだ聖書を母国語で読めない人が大勢いる。その人々に母国語聖書を与えるために、彼らは聖書翻訳を続けており、現在1500の翻訳プログラムが進行しているという。いずれもアジアやアフリカの少数民族の言葉への翻訳であり、その働きは困難を極める。ペンテコステの日に聖霊が下り、弟子たちは語る力を与えられ、さまざまの言語で語り始めた。そして今や2000以上の言語で聖書は語られ、さらに1500の言語で語られるため、現在5800人の人々がこのウィクリフ協会で働いている。彼らは何故、そうするのか。彼らに力を与えているのはイエスの宣教命令である。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒行伝1:8)。彼らの仕事に比べれば、私たちに与えられている仕事、篠崎教会を再建するという仕事はたやすい。使徒行伝2章は私たちにそう教える。