江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2003年4月13日説教(ルカ22:39-53、「しかし、御心がなりますように」)

投稿日:2003年4月13日 更新日:

1.オリーブ山にて

・弟子たちと最期の晩餐を過ごされた後、イエスはいつものようにオリーブ山に向かわれた。イエスと弟子たちは、昼は神殿で教えられ、夜はオリーブ山で過ごされていた(ルカ21:37)。イスカリオテのユダは既にイエスの元を離れ、群衆のいない時を狙ってイエスを引き渡す相談を、祭司長たちと始めていた(ルカ22:6)。従ってイエスはオリーブ山にユダが兵隊たちを連れて自分を捕らえに来るであろうことは予想されていた。それでもイエスはオリーブ山に行かれた。それは、やがて来るであろう最後の時を祈って待たれるためである。
・いつもの場所に着かれると、イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないために祈っていなさい」と言われた。弟子たちは二振りの剣を持っていた(22:38)。彼らの頼りは剣であった。しかし、イエスは剣を置いて祈りなさいと言われた。クリスチャンにとって唯一の防御は剣ではなく、祈りである。「剣をとるものは剣で滅びる」(マタイ26:52)、アメリカがイラクを軍事力で圧倒し、その軍隊は首都バクダットに入った。人間的に見れば、それは必要なことだったのかも知れない。しかし、それは聖書が教えることとは異なる解決法であることを私たちは覚える必要がある。
・そしてイエスも祈り始められた。有名なゲッセマネの祈りである。イエスはここで、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」と祈られている(ルカ22:42)。イエスは「この杯」、即ち十字架の苦難を取り除いて下さいと祈られている。これは私達の祈りと同じだ。イエスは人間として、この苦しみ、この災いを取り去って下さいと祈られた。イエスも私たちと同じ様に苦しんで祈られたことを聖書は隠さない。「イエスは・・・御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル書2:17−18)は証言する。
・イエスは苦しみもだえられ、汗が血の滴るように地に落ちたと聖書は記述する(ルカ22:44)。何故、神の子がこのように苦しまれたのか。イエスは当時30歳の男性だった。若い肉体が生きることを求めて死の恐怖と戦ったのも一つであろう。しかし、それ以上に神の御心がわからない苦しみがあった。十字架で死ぬ事に意味があるのだろうか、それが本当に父の御心なのか。その疑いの中でイエスは苦しまれた。人間にとって最も耐えがたいのは、今与えられている苦しみの理由がわからない時だ。そのイエスの必死の求めに答えて、神は天使を送られた(ルカ22:43)。神はイエスの苦しみを取り除こうとはされない。必要な苦しみだからだ。苦しみを取り除くことではなく、その苦難を通り抜けることが出来るように天使を送って励まされた。そのことによってイエスは神の御心を確信することが出来、祈られた。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ22:42)。必死の求めが、人間の祈りを神の子の祈りとする。「しかし、御心のままに」、これは人間の祈りを超えている。

2.しかし、御心がなりますように

・私たちもまた、神の御心がわからない時がある。また、わかってもそれがあまりにも自分の意志と反する場合、従っていけない時がある。イエスも神の御心がわからず、苦しまれた。しかし、最後には「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と言われ、平安の中に十字架に臨まれた。これは信仰の本質的な出来事であると思う。
・ある女性の方から相談を受けたことがある。彼女は今38歳であるが、24歳の時、脳腫瘍を発病され、腫瘍の摘出手術を受けたが、後遺症が残り、以来14年間、自宅で療養されている。後遺症のために視覚障害があり、またてんかんの発作が起こるため、外で働くことは出来ず、この先、病気が回復する見通しもない。学生時代の友人たちは大半結婚し、子供たちもいるが、彼女には結婚など考えられない状況だ。朝起きても特にやるべき事もなく、誰からも音信がない。「生きるのが空しい」、彼女はそう訴えられた。
・彼女はクリスチャンではない。だから「父よ、この杯を私から取り除けてください」と祈ることは出来ても、「しかし、御心のままに」と祈ることは出来ない。私たちはイエスが「しかし、御心のままに」と祈られたことを知っている。その祈りを知っていることこそが私たちクリスチャンの幸いなのではないかと思う。私たちも、何故神がこのような苦しみを与えられるのか、わからない時があった。しかし、わからないままに「御心のままに」と祈った時、苦しみの外的状況は何も変わらないのに、平安が与えられる経験をしたことがある。イエスのゲッセマネの祈りは私たちの生き方の根底を変えうる祈りなのだ。
・私たちは思う。私たちの願いが聞かれず、苦しみの杯が取り去られないことが、最大の不幸なのではない。最大の不幸とは、祈りが聞かれなかった時、失望し神から離れさることではないか。その時、苦しみだけが私たちに残され、私たちはその苦しみに巻き込まれて窒息してしまう。人間の喜びは「自分が病気ではない」とか「自分の家族には災いがない」とかいう事実の上に立っているのではない。この女性は自分が脳腫瘍にかかったことを不幸な出来事として恨んでいる。それは耐えがたい苦難だと思う。しかし、脳腫瘍が取り去られても、それだけでは彼女は幸福にはなれないだろう。それは脳腫瘍という病をもたない私たちが、それだけでは幸福になれないのと同じだ。脳腫瘍が彼女の不幸の原因ではなく、脳腫瘍という病にとらわれ神が見えなくなっていることが彼女の不幸をもたらしている。
・「しかし、御心のままに」という祈りは、諦めではない。それは現実をありのままに受け入れる勇気を与えてくれるものだ。「変えることの出来るものを変える勇気を、変えることの出来ないものを受け入れる平静さを、そして何が変えることが出来、何が出来ないかを見極める知恵を」(R.ニーバー)与える祈りだ。

3.弱さを力へと変えられる主

・イエスは苦しんで祈られた後、弟子たちのところにお戻りになった。その時、弟子たちは眠り込んでいた(ルカ22:45)。ペテロはかって大見得を切った。「主よ、ご一緒になら、牢に入って死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22:33)。そのペテロも、最後の時には疲れ果てて眠り込んでしまった。しかし、イエスは彼らを叱られなかった。「心は燃えても肉体は弱い」(マルコ14:38)ことを、ご自身の経験から知っておられたからだ。私たちはこのようなイエスの赦しの下にある。それはこのゲッセマネでの苦しみの祈りを通して、与えられた赦しだ。今日の招詞にヘブル5:7を選んだ。
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」
・キリストは苦しまれた。血の汗を流すほどに苦しんで祈られた。そして、苦しみに勝たれた。だから私たちの生きる苦しみを理解されるし、私たちの弱さもそのまま受け入れてくださる。私たちはこのような人を自分の人生の同伴者として与えられているのだ。だから、私たちがどのような苦しみの中にあっても、またその苦しみの意味が判らなくとも「しかし、御心のままに」と祈ることが出来るのだ。私たちは、ある女性が何故脳腫瘍という重い十字架を背負わなければいけないのかは知らない。何故かは知らないけれど、神がその重い病気を通して彼女を祝福されようとしていることは知っている。それはイエスが十字架を通して祝福を受けられ、私たち自身が苦しみを通して主に出会った経験を持つからだ。彼女にこの十字架の福音を伝えたい。ここに命のパンがあることをわかってほしい。
・前に木田仁逸(じんいち)という牧師の養父のことを話したことがある。その人は進行性筋萎縮症という難病を持っていた。20歳で発病し、67歳で昇天するまで病気で苦しめられた。ある時、この人の養子として育てられ、今は牧師になった木田が父親に聞いた。「もし、神様がこの病気を治してくれるといったらどうするか」。父親は答えたそうだ「どちらにしたら良いか、わからない。どうしてかというと、この病気になったからこそ神様を信じることが出来るようになったから」。この苦しみ、この病を通じて、木田の父親は神を求め、神は答えてくださった。仮にこの病気が良くなっても自分はまた死ぬ。それを考えた時、病気が治るか治らないかはどうでも良い。否、病気が治ればまた神様を忘れてしまうかも知れないから、病気が治らないほうが良い。これが十字架の力であり、救いの力である。脳腫瘍をわずらう女性に伝えたいメッセージ、イエスの苦しみの祈りからいただいたメッセージなのである。

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