1.エルサレム行きを前にして
・イエスは2年間のガリラヤ伝道を終えられ、これからエルサレムに行かれようとしておられる。エルサレムでは、祭司長たちや律法学者たちがイエスを捕えようとして、待ち構えている。エルサレムに行くことは十字架への道、試練の道であることをイエスは知っておられた(ルカ9:22)。しかし、父なる神はイエスに十字架の道を歩むように命じられている。イエスはそれに従おうとされながらも、人としての不安をぬぐいきれない。だから、祈るために山に上られた(ルカ9:28)。十字架で死ぬ、それは神の子にとっても大きな試練だった。
・私たちもいつか死ぬことを知っている。しかし、その死はまだ遠い先と思っているから、今は切実な思いでは迫ってこない。しかし、仮に癌が発見され、あと1年しか生きることが出来ないと宣告された時、死の意味は違ってくる、それは耐えられないくらいの重さをもって私たちに迫るだろう。イエスはガリラヤで布教活動されながら、いつかはエルサレムに行かなければならないと考えられていた。しかし、いざエルサレムに向おうとされる時、不安と恐怖がイエスに押し迫ってきた。だから、祈るために山に上られた。聖書はイエスが死の恐怖と戦われたことを隠さずに述べる。「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである」(ヘブル5:7)。
・イエスは父の御旨を求めて、夜を徹して祈っておられた。弟子たちも共に祈っていた。その時、弟子たちはイエスの姿が突然変わり、その衣が真っ白に輝くのを見た。このような神秘的、あるいは超越的な体験はありうる。パウロは復活のイエスに出会ったと告白しているし(1コリント15:8)、ヨハネは、これから起こる出来事を幻に中に示され、それを記録して、迫害の中にある諸教会に手紙を書いた(ヨハネ黙示録3:1)。
・弟子たちは幻の中に、モーセとエリヤが来るのを見た。二人とも預言者として活動し、生きたまま天に召され、終末の時に再び来ると聖書で予言されていた人物であった(マラキ書4:4-5)。弟子たちは彼らが「イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していた」(ルカ9:31)のを聞いた。この「最後のこと」という言葉にはエクソダスというギリシャ語が使われている。エクソダスとは脱出、出口、解放という意味であり、出エジプト記の原題がこのエクソダスである。イエスがエルサレムで新しい出エジプトを、罪と死からの解放をなされるという意味を、ルカはこのエクソダスという言葉を使って示そうとしている。
2.天上の出来事と地上の出来事
・ペテロはこの光景を見て、感激し、3人のために幕屋を立てようと提案した(ルカ9:33)。しかし、そのペテロの思いをさえぎって神の言葉が響いた。「これは私の子、私の選んだ者である。これに聞け」(ルカ9:35)。人の思いは具体的な目に見えることに集中する。ペテロは三人のために幕屋、家を建てようとした。私たちも「教会を立てる」と言う時、それは教会堂を建設することだと思ってしまう。目に見えるものはわかりやすいからだ。しかし、神は「私の子の言葉を聞け」と言われている。教会は「イエスの言葉を聞くところ」、御言葉に耳を傾け、それを伝えるところだ。ルカ9章は、私たちの日常的な経験からは類推できない要素を含んでいる。しかし、中心のメッセージはイエスの姿が光り輝いたことでもなく、モーセやエリヤが現れたことでもない。神からの言葉が弟子たちに臨み、「これは私の愛する子、私の選んだもの、これに聞け」という命令が下されたことである。
・イエスと弟子たちはやがて山から下っていく。地上では、残された弟子たちのところにてんかんの子を持つ父親がいやして欲しいと子を連れてきたが、弟子たちは治せず、困惑していた。天上の静けさと対照的な騒々しい世界がそこにあった(ルカ9:37-40)。ルネッサンスの画家ラファエロは「主の変貌」と題する有名な絵を書いた(バチカン美術館蔵)。絵の上の部分には三人の弟子たちが経験した天の世界の不思議と美が描かれている。絵の下の方では、てんかんで苦しむ子供を前に、残された弟子たちが何も出来ずに困惑している様が描かれている。天上の静けさと地上の騒々しさが対照的に一枚の絵の中に描かれている。イエスはこの天の静けさから地上の騒々しさの中に、山を下りて行かれた。
3.イエスの選択と私たちの選択
・イエスは「エルサレムに行って十字架で死ぬ」事が父の御旨であることを、祈りを通して再確認され、十字架への道を歩き始められた。この変貌の山での出来事がイエスの生涯の大きな分かれ道であった。イエスの前には多くの選択肢があった。仮にイエスがこの世の政治家あるいは宗教家としての道を歩もうと思えば、可能な情況だった。人々はユダヤをローマから解放してくれるメシヤを待ち望んでおり、イエスがユダヤの指導者としてローマに対して立てば、民衆は従って来ただろう。そして、ユダヤの解放に成功されたかもしれない。しかし、仮にイエスがどれほどの成功をその道で収めたとしても、人の魂を罪と死の束縛から解放する出来事(エクソダス)は起こらなかった。少なくとも英雄イエスは私たちには何の関係もない、過去の歴史上の人物であるに過ぎなかったであろう。
・また、イエスが世を離れて山の上に家を建て、祈りと瞑想の修道院的生活を送ることも可能であった。そうすれば、イエスは、平安の中に地上の生涯を送ることが出来たであろう。しかし、人々に復活の希望を与えることは出来なかった。聖者イエスも私たちには無縁の存在だ。イエスは山を下りて、エルサレムに向う道を選択された。この十字架のイエスこそ、私たちの主だ。イエスの十字架と復活を通して、私たちも罪の赦しと永遠の命の希望を与えられた。だから,私たちもイエスの歩まれた十字架の道を歩んで行く。
・今日の招詞に第二ペテロ1:17-19を選んだ。イエスの変貌を経験したペテロの告白である(新約聖書372頁)。
「イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』。わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。」
・ペテロはこの後、イエスと一緒にエルサレムに行く。そして、エルサレムでイエスが捕えられる時、師を捨てて逃げた。しかし、復活のイエスに出会って全てのことを赦され、立ち直る。そしてイエスの言葉を伝え始め、やがて十字架にかけられて死んだ。生前、ペテロはこの山上で起きた出来事の意味を迫害に苦しむ信徒たちに伝えた。それが今日の招詞の個所である。「今あなた方はクリスチャンという理由で迫害され、ある者達は殺されていった。そこには何の希望もないように思うかも知れない。しかし、私は主に出会い、その主に神が語られる言葉を聞いた。そして十字架でしなれた主が復活されたのを目撃した。この世を支配しているのは、悪魔ではなく、神なのだ。それは私が自ら体験した事実なのだ。希望をなくしてはいけない。既に光は輝き始めている」と。
・カール・バルトという有名な神学者がいる。彼が死ぬ前に語った言葉が伝えられている。ペテロの告白と同じ信仰が脈打っている。こういう言葉だ。
「世の中は暗い。そうだ。世の中は暗い。しかし、ヘこたれてはいけない。けっしてへこたれてはいけない。主は支配しておられる。ワシントンやモスクワや北京だけがこの世を支配しているわけではない。天が支配している。だから心配するのは止そう」。