1.CrimeとSin
・ヨハネ8章は「姦淫の女の話」として、有名な箇所だ。律法学者達が「姦淫を犯した女」をイエスの前に連れて来て「あなたならこの女をどう審くか」と迫った。イエスが「あなた達の中で罪を犯したことのない者が、この女に石を投げなさい」と答えられたところ、誰も石を投げることが出来ず、みんながそこを立ち去ったという話だ。内村鑑三はこの箇所を「ここに福音中の福音がある。仮に聖書の他の箇所が全てなくなっても、この物語があれば世は救われる」と評している。この物語こそ、イエスの教えを余すところなく伝えると言うのだ。今日はこの物語を通して、今私たちに何が語られているのかを共に学んでみたい。
・朝早く、イエスはエルサレム神殿の境内で人々に教えておられた。そこに律法学者達が姦淫の現場で捕らえられた女を連れて来て言った「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。あなたはどうお考えになりますか」(ヨハネ8:4-5)。当時のユダヤでは姦淫は犯罪であり、姦淫罪を犯した者は石打の刑に処せられることになっていた。律法学者達は姦淫を犯した女の処遇に困って、イエスのところに連れてきたのではなかった。イエスをわなにかけて訴える口実を得るために連れてきた。もし、イエスが「法に従って、その女を死刑にしなさい」と答えれば、愛と赦しを説かれたイエスの教えに反し、民衆の心はイエスから離れる。もし、イエスが「赦しなさい」と言えば、それは当時の刑法であるモーセ律法に反することになり、イエスは律法を守らないと非難される。どちらを回答してもイエスは窮地に追い込まれるはずだと律法学者達は考え、女をイエスの元に連れてきた。
・イエスは黙って答えられなかった。イエスの心の中にはいろいろな思いがあったことであろう。なぜ、姦淫は罪なのか。それは姦淫によっては何の良いものは生まれず、ただ混乱と悲劇のみが起こるからだ。日本では毎年26万組の夫婦が離婚するが、その大半は一方の配偶者の不貞によるものだ。姦淫が日本でも大きな傷を生んでいる。姦淫、現代的に言い直せば不倫によって、何と多くの人が傷つくことか。人が傷つき、苦しむのは神の御心ではない。だから止めるように命じられた。しかし、今、律法学者達は姦淫の罪を犯した女を公衆の前に連れてきて、その正邪をはっきりさせよと迫っている。この女が今どのような恥ずかしい思いでいるのかを考えようともしない。律法学者達は、女が傷つき、苦しんでいても、そのことに何の痛みも感じていない。
・律法学者達はイエスの沈黙を、答えに窮しているからだと思い、執拗にイエスに問い続けた。イエスは彼らに言われた「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)。あなたたちはこの女をどう審くべきかと問い続ける。しかし、その前に、あなた達がこの女を審く資格があるかをまず問いなさい。自分は姦淫の罪を犯したことはないと神の前に誓える者がまず、この女に石を投げなさい。この言葉によって、事件は刑事裁判から良心の問題に移っていった。イエスはかって「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5:28)と言われた。情欲を持って女性を見たことのない男はいないだろう。その情欲が表に出れば姦淫の罪になり、出なければ無罪なのか、違うのではないか。外に出た罪ばかりでなく、内面の思いまで問われる時、誰も罪なしとはいえないのではないか。あなた自身が罪人なのに何故他者の罪ばかりを問うのかと、ここでイエスは言われている。
・この物語には四つの罪が見える。第一の罪は女が犯した姦淫の罪、これは見える罪だ。第二の罪はこの場にいない姦淫をした男の罪、男は同じ行為をしたのに何故、裁かれないのか。第三の罪は、この出来事を見世物のように眺めている群集の罪、傍観者の罪だ。そして最大の罪は、イエスをわなにかけるために、この女を道具として用いて恥じない律法学者の罪である。姦淫は肉の罪である。しかし、罰を言いふらすのは霊の罪である。悪性において、罪を言いふらす罪は姦淫の罪より重いのではないか。・英語では罪にはCrimeとSinの二つの言葉がある。Crimeとは犯罪、外に出た罪である。それに対してSinとは内面の罪、外には出ないが内面のあふれる思い、怒りや妬みや貪りの思いである。聖書で罪というのはこの内面の罪=Sinだ。このSinこそがCrimeを生む根源であり、この内面の罪から解放されない限り、外面の罪はなくならない。この内面の罪こそ原罪=Original Sinと呼ばれるものだ。ヤコブ書は言う「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブ1:15)。人の心の中にある思い=欲望が貪りとなり、貪りが具体化する時、犯罪となる。人間の欲望がなくならない限り、罪はなくならない。人は全て罪びとなのだ。
2.自分の罪を知る時
・「罪なき者だけが石を投げよ」とのイエスの言葉に、律法学者も群集もいなくなった。ユダヤ人は聖書の民であり、聖書は外に出た罪ばかりでなく、心の思いまでも問うものであり、その時「自分は罪がない」とは言えないことを知っていたからだ。ある人は想像する「もし日本でこのような出来事が起きたら、人々は、石を投げるのではないか。日本人にとって罪とは外に現れた罪しかないのではないか」と。私もそう思う。日本にはSinに相当する言葉がなく、罪とはCrimeすなわち犯罪だ。自分はこの女のように犯罪を犯してはいない、だから犯罪という形で表に出た罪に対しては平気で石を投げる。人に石を投げると言うことは、自分も同じ立場になれば石を投げられることを意味する。だから、日本人は罪が表に出ないように隠す。この罪を自覚しない、知らないことが日本を住みにくい国にし、私たちの心から平安を奪っている。
・今日の招詞に第一コリント13:4-7を選んだ。愛の賛歌として有名なところだ。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
・5節『愛は恨みを抱かない』とある。抱くと訳されている言葉ロギマゾイは、本来は「数える、計算する、記録する」と言う意味で、ある事柄を忘れないために帳簿に記入するという商業用語から来ている。愛は人の悪いところばかりを数えて帳簿や元帳に記入することをしない。TEVでは「Love does not keep a record of wrongs」と訳されている。愛は他人から受けた軽蔑や中傷や迫害等の悪を数えない。何故ならば、私たちも他者に対して同じことをする存在であることを知っている者であるから、他者の罪を数えないのだ。数えないのではなく、数えることが出来ないのだ。ここで明らかになっていることは、私たちが自分の罪を知った時、初めて人の罪を数えない存在、すなわち人を愛することが出来る存在になりうることだ。
・誰もいなくなった時、イエスは女に言われた「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」。女は答えた「主よ、誰も」。イエスは言われた「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11)。
・ヨハネ8章が私たちに教えることは、審かれるべきは姦淫をした女ではなく、この女を責めて恥じない律法学者であり、その律法学者とは私たち自身なのだと言うことである。私たちは自分の過ちにはどこまでも寛容であり、他人の過ちは責めてばかりいる。私もかって過ちを犯し、それを責められて、苦しんだことがあった。その時、イエスの「私もあなたを罪に定めない」という言葉を聞いた。その一言が自分に立ち直る勇気を与えた。私たちは罪を赦されたから、他者の罪を赦すのだ。そして相手を赦した時、相手も心を開いてくる。そこに平安が生まれる。キリストにある平安、私たちはそれを知っている。それは私たちの宝だ。だから、私たちはこの宝を宣べ伝えるのだ。