江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2003年9月21日説教(ルカ14:25-35、最も大事なもの)

投稿日:2003年9月21日 更新日:

1.エルサレムへの途上にて

・イエスと弟子たちはガリラヤでの伝道を終え、エルサレムに向かっている。イエスに従う者達は、イエスがエルサレムに行かれたら、支配者ローマを倒して王に就かれると思っていた。イエスはメシア、救い主であり、ユダヤ人にとって救い主とはイスラエルを敵から解放する者だったからだ。弟子たちは、イエスが王になられれば、自分達も重要な役職に就けるのではないかと期待していた。しかし、イエスはエルサレムで何が待っているのかを知っておられた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活する」(ルカ9:22)。エルサレムでイエスを待っているのは十字架だ。イエスが捕らえられ、十字架で殺されるならば、弟子たちも無事ではすまない。だから、イエスは言われた「もし、だれかが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、私の弟子ではありえない」(ルカ 14:26-27)。
・イエスはこれから十字架につかれる。彼を待っているのは、世の権力と栄光ではなく、十字架の苦難だ。ここにいる弟子たちは、その時イエスのために全てを捨てる覚悟が出来ているだろうか。弟子たちにその覚悟がなかったことはやがて明らかになる。イエスが捕らえられ、裁判にかけられた時、弟子たちは自分達も捕らえられることを恐れ、逃げてしまったからだ。

2.二つのたとえ

・弟子たちと同じように、私たちも問われている。イエスを救い主と信じ、彼について行くとは全てを捨てて従うことだが、その覚悟が出来ているかと。ただ、ここで捨てるということは、この世を捨てて出家したり、修道僧のように禁欲的に暮らすことではない。出来ないことをせよといわれているのではない。何が出来るかを考えなさいといわれている。次に来るたとえを見ればそれは明らかだ。
・28節からイエスは二つのたとえを語られる。第一のたとえは家を建てるものの覚悟だ。家を建てる場合は、どの程度の費用があれば家は立つのか、その費用を最後まで負担できるのかの計算をする。その計算の結果、費用を負担できると判断した場合のみ、家を建て始める。そうしないと、途中で費用がなくなり、完成することが出来ないからだ。29-30節がそうだ「そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう」。これは今日においても真理だ。日本では年間20万人が自己破産するが、その大半は住宅ローン破産だ。きちんと計算しないからこのような悲劇が起こる。
・私たちは家を建てるときに、費用と便益を計算し、費用を上回る利益を得られると思うから、家を建て始める。家にさえ、それだけの配慮を払うのであれば、何故家よりも何倍も大切ないのち、人生についてそういう検討をしないのかとイエスは言われている。私たちは多くのものをなくてはならないものと思っている。ある人にとっては仕事が生きがいであり、仕事のために人生の全てを注ぎ込み、働く。しかし、現実を見つめよと言われる。あなたがいくら懸命に働いても、会社の経営が傾けば会社はあなたに退職を勧告する。定年になって会社を辞めたとき、あなたに何が残っているのか。仕事や会社は本当にあなたの全てを注ぎ込む価値があるのか。子供を育てることを自分の全部と思っている母親がいる。そのような母親は子供が結婚し独立した後でも、子供を離れることが出来ず、子供の生活に干渉するから、嫁・姑の問題が起きる。本当に子供はあなたの全てなのか、子供はあなたの人生のすべてを献げるに値しないのではないか、もっと大切なものがあるのではないか、計算しなさいとここで言われているのだ。
・二番目のたとえも同じだ。戦争するものは戦って勝つという成算がなければ戦争を始めない。敵が2万人の軍勢を持ち、自分が1万人の兵士しか持たないのであれば、普通に戦っては負ける。その時どうすれば劣勢を跳ね返して相手を負かせるのかを考えるだろう。どうしても無理だ、勝てないと計算した時には、戦争を避けて相手に和解の使者を送る。このような計算が出来るのに、何故いのちの計算が出来ないのか。33節の言葉がその問いかけだ「同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人として私の弟子ではありえない。」
・あなたが自分の命を支配できるならば、あなたは命についてわずらうことはない。しかし、あなたが自分の命を長くしたいと思っても、一日たりとも命を延ばすことは出来ないではないか。「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない」(マタイ5:36)のであれば、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」方を何故求めないのか(マタイ10:30)。最も大切な命について計算をせよ。あなたが命の支配者でないとしたら、誰が支配者なのか、父なる神ではないか。その父なる神が今あなたを招き、祝福を約束されている。その約束が今日の招詞だ(ルカ 18:29-30)。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」。この命を支配されておられる神の約束を信じることが信仰だ。信仰とはこちら側だけでなく、向こう側の約束を信じて生きることであり、向こう側の約束を信じることが出来るならば、こちら側を捨ててもおかしくないではないか、そこのところを良く考えなさいとイエスは言われているのだ。

3.地の塩として生きる

・そして、地の塩として生きなさいと言われている。34節「塩は良いものだ」。塩は多くの役割を持つ。一つは防腐剤として働く。塩があれば野菜や肉を新鮮なままで保存できる。クリスチャンは世の防腐剤として働くことを神から期待されている。この世には罪が、悪が満ち溢れている。誰でもが他者を押しのけてまで自分の利益を追い求める。その時、父なる神は私の罪を赦して下さったから、私も、私をののしり、私のものを奪おうとするものを赦そうというクリスチャンの存在が、争いと貪りの世に平和をもたらす。相手のために自分の持分を喜んで放棄するクリスチャンの働きが世の腐敗を防ぐ。
・塩の二番目の役割は味付けだ。塩味のない食べ物は味気がなく、おいしくない。塩は周りの食べ物に味をつける。しかし、その時、塩が自己主張し、自分を硬く保っていたら、食物に味をつけるどころか、「辛い」といって捨てられる。塩が自分をなくし、相手に溶け込んだとき、塩は塩として働く。自分を捨てるとはそういうことだ。母親が子のために自分を捨てることによって子が育っていくように、クリスチャンは自分を捨てることによって周りを生かす。
・塩はなくてはならないものだ。私たちクリスチャンも塩として、この世に不可欠な存在なのだ。その塩が塩としての役割を果たせなくなくなったら、捨てられるだけだ。「塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい」(ルカ14:34-35)。ここで言われている塩とは死海沿岸やシリヤの荒野で取れる岩塩だ。岩塩は多くの不純物を含むから、空気中の湿気によって溶けてなくなったり、不純物が多すぎて塩として役に立たなくなる。純度の高い塩、いつまでも塩味を保てるような塩になれ。その純度の高い塩になるために私たちはこの教会に集まるのだ。だから、教会のために必要な重荷を負うのだ。
・報いは、喜びは大きいのだ。「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」。家や妻や子供に絶対の価値を置くな。失望するからだ。あなたを本当に生かしているのは、父なる神であり、神は必ず報われる。それを信じた時、すべてのものが祝福になる。癌で余命1年と宣告されたら、与えられた1年を精一杯に生きる力を与えられる。希望の大学に合格することが出来ないことにより、新しい方向への可能性が与えられる。期待をもって結婚し、その結婚が失望に変わる時に、不幸を嘆くのではなく、相手のために祈る勇気が与えられ、結婚生活が変わり始める。クリスチャンに与えられる報いは平安だ。どんなに金があっても家族がいがみ合ってはそこに幸いはない。出世をして大会社の社長になって見ても、いつ競争相手に蹴落とされるかも知れない不安の中にある。この世が与えるものは全て過ぎ去る。過ぎ去るものを捨てて、過ぎ去らないものを求めなさい。それを計算しなさいとイエスは招かれている。

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