江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2003年5月4日説教(ルカ24:36−49、復活のイエスの証人として)

投稿日:2003年5月4日 更新日:

1.弟子たちに現れたイエス

・イエスが十字架で殺されて三日目の朝、婦人たちがイエスの遺体に香料を塗るために墓に行き、そこで墓が空で天使がおり、「イエスはよみがえられた」と告げられる出来事があった。婦人たちはそのことを弟子たちに報告したが、弟子たちはそれを「たわごと」と思い(ルカ24:11)、信じなかった。同じ日の昼間、エマオに向かう弟子たちにイエスが現れ、イエスと出会った弟子たちは夜の道を急いでエルサレムに戻って行った。ちょうどその頃、エルサレムに残った他の弟子たちは失意と恐怖の中で、家の戸にかぎをかけて部屋に閉じこもっていた。自分たちも捕らえられると恐れていたからだ。そこへイエスが現れた。弟子たちは復活のイエスを見て、幽霊を見ているのだと思った(24:37)。あまりにも不思議な出来事で、とても信じることが出来なかった。その弟子たちのために、イエスはくぎに刺された手足をお見せになって言われた。「私の手や足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」(24:39-40)
・やっと信じた弟子たちに、イエスはこの復活の証人になりなさいと言われた。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣伝えられると。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となるのだ。」(24:45-47)。復活の日、イエスは朝婦人たちと出会い、昼にエマオに向かう弟子たちに現れ、夜にはエルサレムに残った弟子たちに現れたと聖書は伝える。

2.私たちにとって復活とは何か

・この復活の記事は私たちにいろいろなことを教える。弟子たちが復活を信じたのは、復活のキリストが弟子たちに現れたからだ。しかし、最初は弟子たちも信じることができなかった。婦人たちの証言を聞いても、弟子たちはそれを「たわごと」と思い、エマオに向かう弟子たちも同伴したイエスがわからなかった。エルサレムに残った弟子たちも、最初は「幽霊を見ている」のだと思った。復活とはそれほど信じることの難しい出来事だ。私たちが復活を信じることができるとしたら、それは私たちも復活のキリストに出会った時だ。私たちは、それぞれの場で、このキリストに出会った。もし、私たちが出会ったイエスが偽りであり、幻であるとすれば、私たちには何の希望もなくなり、私たちの信仰もまったくの無駄になる。パウロが言うとおりだ。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(第一コリント15:14)。
・復活があることにより、私たちはもはや死を恐れる必要はなくなり、死の縄目から解放される。死の縄目から解放されると言うことは、死ですべてが終わらないから、現在の生を大事にする生き方をすることが出来るということだ。死に勝たれた方がおられるから、私たちは現在がどのように暗く、出口が見えないとしても、希望を失わずに生きていくことが出来るのだ。この復活があるからこそ、私たちは自分の十字架を負って、イエスに従っていくことが出来るのだ。それほどに復活の出来事は私たちにとって大切な出来事なのだ。
・そして、教会はこの復活信仰の上に立てられている。私たちは日曜日を「主の日」と呼び、この日に礼拝を守るが、これは金曜日に十字架で死なれたイエスが、三日後の日曜日に復活されて弟子たちの前に現れたから、教会はこの日を安息日と定め、日曜日に礼拝を守るようになった。今、世界中で日曜日が休日だが、これはイエスが日曜日に復活されたからだ。私たちも日曜日ごとに復活の主に出会うために教会に来る。
・復活されたイエスは弟子たちに「あらゆる人々に福音を告げなさい」と命令された(ルカ24:47)。今日の証詞にマタイ福音書28:19-20を選んだ。
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
・「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子としなさい」、これが復活の主が私たちに命令されたことだ。その命令を受けて弟子たちは宣教を始め、教会が立てられて行った。教会がエルサレムから始まり、ローマ世界に広がり、ヨーロッパに行き、アメリカに行き、そのアメリカを通して日本にも伝えられた。日本人もこの宣教命令を受けて教会を立て、新小岩教会が立てられ、その新小岩教会を母体としてこの篠崎教会が立てられた。篠崎教会が立てられたのも、新小岩教会の人たちが、このイエスの宣教命令を自分たちへの言葉として聞いたからだ。自分たちだけの信仰生活を守るのであれば、篠崎の地に教会を立てる必要などない。そうではなく、篠崎に住む人々にイエスの言葉を伝えるためにこそ、この教会が立てられた。それは復活のイエスの命令にその根拠を置く行為であることを、私たちは今日、覚えよう。
・私たちはこの宣教命令、「あらゆる人々に福音を告げなさい」という命令をどう聞くのだろうか。私たちが自分の信仰生活を守るだけであれば、ここ篠崎に教会がある必要はない。今、多くの人が小さい教会を離れて大きな教会に移動している。大きな教会は教会員がたくさんいるから献金負担も軽いし、奉仕も誰かがしてくれる、重荷を担わなくとも教会生活ができるからだ。それに対して小さい教会の場合は、教会員が少ないから一人一人への負担が経済的にも、また奉仕の面でも重くなる。私たちがただ礼拝を守りたいだけであれば、この篠崎教会は不要だ。近くに他の教会もあるし、無理して篠崎教会を維持する必要はない。そうではなく、この地域の人に伝道することが教会の使命であり、それが復活の主が命じられたことだと私たちが理解するときだけ、この地に教会が必要だ。私たちの教会の、本年度の主題は「教会を立てる」である。この地に教会があることが必要なのかを、もう一度、復活の主にたずねる。それが今、必要だ。


3.復活を自分の出来事としてとらえる。

・パウロは復活の主に出会った経験をコリントの教会への手紙の中で、次のように書いている。「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(ペテロ)に現れ、その後十二人に現れたことです。・・・ 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました。」(〓コリ15:3-8)。ここで、復活のキリストに出会ったのは、すべて弟子たちであり、その他の人たちは復活のキリストに出会っていないことに注意する必要がある。復活のキリストは霊の体であり、信仰なしには見えないのだ。私たちは復活のキリストに出会って、心が熱く燃えた経験がある。今も熱く燃えているだろうか。
・今、この教会は存続の危機に立っている。古くからこの教会を支えてくださった方々が、お年を召したり、病気になられたりで、共に礼拝を守れなくなっている。今現在、この教会を支えてくださる方々も小さい教会ゆえの負担の重さにあえがれている。いま、この教会は皆さんの力が必要だ。もし皆さんが、今も熱く燃えているならば、この篠崎教会を基点として、ご一緒に伝道にまい進して行きたいと願う。もし、皆さんの熱が少し冷めているならば、今改めて復活のキリストを呼び求めてほしい。皆さんなしには、この教会は伝道できないのであり、皆さんなしにはこの教会は存続し得ないのだ。この教会が復活のキリストの命令に答えて立てられていることを今一度、共に覚えたい。

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