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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2003年4月18日受難日説教(ルカ23:32−43、父よ、彼らを赦したまえ)

投稿日:2003年4月18日 更新日:

1.ゴルゴダにて

・人々はイエスを十字架につけるために、されこうべ(ゴルゴダ)と呼ばれる刑場に連れてきた。それは金曜日の出来事だった。そこには二人の犯罪人も共に十字架につけられた。人々は十字架につけられたイエスを嘲笑して言った。「他人を救ったのなら、自分を救うが良い」(ルカ23:35)、「おまえがユダヤ人の王なら自分を救ってみよ」(同23:37)。「自分を救え」、これが世が求める救いだ。他人などどうでも良いからこの私を救え。この私を救えない限り、おまえは私にとって何の価値もない。だから人々はイエスを十字架につけた。
・イエスはこの嘲りに対して、十字架上で祈られた。「父よ、彼らを赦して下さい。自分が何をしているか知らないのです」(23:34)。ユダヤの殉教者は死刑執行人を呪った。私たちも、自分が無罪なのに磔にかけられたならば、その人々を呪うだろう。しかし、イエスは自分を十字架で殺そうとする者たちのために、その赦しを祈られた。この言葉を共に十字架につけられた罪人たちも聞いた。
・しかし、二人の内の一人はイエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」(ルカ23:39)。もう一人はイエスに憐れみを乞うた。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(23:42)。彼は自分の救いを求めない。自分は救われるに値しないことを知っているからだ。彼はただ、あなたが神のもとに帰る時、私を思い出して欲しいと願うだけだ。この憐れみを乞う男にイエスは答えられた「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)。ここに最初の信仰告白がなされ、その告白に対して祝福が与えられた。最初のクリスチャンがここに生まれ、最初の教会がこのゴルゴダの字架の上に立てられた。
・この罪人を信仰告白に導いたものは、イエスのとりなしの祈り、「父よ、彼らを赦して下さい。自分が何をしているか知らないのです」という祈りだった。人はみな自分を殺すものを恨んで死んでいく、それなのに何故この人は自分を殺すものを祝福して死んでいけるのか。そのイエスに対する感動がこの罪人を信仰に導いた。

2.信仰を告白するということ

・同じ言葉を聞いて、一人は回心し、一人はイエスをののしった。何が二人を分けたのか。それは自分に対する罪の意識の違いである。二人は法に反する罪を犯し、その報いとして刑を受けている。しかし、イエスをののしった罪人はそれを認めない。もう一人はそれを認めた。彼は言っている「 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」(ルカ23:41)。人を救いと滅びに分けるのは、自分が罪びとであると認めることが出来るかどうかだ。自分の罪を認めたとき、私たちは悔い改め、赦しを求める。そして、求めたときのみ、赦しが与えられるのだ。
・小塩節(おしお・たかし)というドイツ文学者がいる。彼は戦後まもなくドイツに留学し、ある時ダッハウという町に行った。ナチス・ドイツの作った強制収容所のあったところだ。建物の中に入ると「シャワールーム」があった。天井にはスプリンクラーのようなものがあり、そこから毒ガスが噴出され、300人の人を一度に殺した。その横の部屋には処理室があり、死体から金歯やめがね等の貴重品をはずした後、大きなオーブン型の焼き釜で死体をゆっくり焼いて、せっけん用の脂と肥料になる灰をとった。まるで食肉工場のようであった。彼は人間をもののように扱うドイツという国に衝撃を受け、こんなドイツから学ぶべきものはないと留学を切り上げて帰る事を決意した。その日の夕方、日本から訪ねてきた知人に頼まれて、教会の夕拝に一緒に行った。普通の家に大勢の人がいた。説教はすでに始まっており、二人は部屋の隅に立って説教を聞いた。説教者は言った「私たちは600万人のユダヤ人をガス室に送り込んだ。その上千数百万人の東欧の人たちを殺した。この私の手は、あの人たちの血で血塗られている」。小塩はその日見たダッハウを思い出した。その銀髪の説教者は「選ばれた民であると自ら誇るとき、個人も民族も恐るべき罪を犯している」と語り、祈り始めた。数十年経った今もその祈りを覚えていると小塩は書いている。「神よ、私たちは罪にまみれています。あなたに対し、世界に対して、私たちは罪を犯しました。神よ、われ信ず、信なきわれを助けたまえ」。この自分が罪を犯したと語っていたその人は、ハノーバーの学校の先生で、学生時代にナチへの抵抗を試みて捕らえられ、ダッハウ収容所につながれ、そこから釈放されたばかりの人であったという話を受付の人が言っていた。本人はそのことには一言も触れず、ただ自分が加害者ドイツ人の一人であることを会衆と共に神にわび、救いを祈っていた。その祈りに動かされて小塩はクリスチャンになった。
・今日の招詞に第一コリント1:21―25を選んだ。
「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」
・教会はただ十字架の言葉を伝える。十字架の言葉こそ、人にその罪を知らしめ、人を回心に導く言葉だ。イエスと共に十字架につけられた罪人は「父よ、彼らを赦したまえ」というイエスの言葉を聞いて回心した。小塩節
は「われ信ず、信なきわれを助けたまえ」というドイツ人の祈りを聞いて回心した。そして悔い改めたものには祝福が与えられる。まさに十字架こそ祝福であり、この十字架につかれたキリストをこの教会はのべていきたい。

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