江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2003年11月16日説教(ヨハネ6:22-35、イエスこそ生命のパン)

投稿日:2003年11月16日 更新日:

1.5千人の養いの後で

・イエスはガリラヤ湖の向こう岸で、五つのパンと二匹の魚で5千人の人を養われた。集まった群衆はこれを見てイエスの力に驚いた。「人々はイエスのなさったしるしを見て『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った」(ヨハネ6:14)。群集は飢えていた。当時は、旱魃等の天候不順で作物が不作になれば、貧しい人々は餓死する社会だった。彼らは思った「5千人のパンを作りうる人であれば、私たちの生活の貧しさも解決して下さるに違いない」。人々は食べるものにも事欠く現在を、毎日腹一杯食べることの出来る将来に変えてくれる人を求めていた。イエスは奇跡を起こされた。この人は私たちに毎日のパンを与える力を持っていると人々は思った。だから人々はイエスを王にしようとした。イエスは群集の心の中にそのような思いが芽生えたことを知って、彼らを避けて対岸のカペナウムに戻られた(6:15)。群集はイエスを追ってカペナウムまで来た。今日、私たちが読むヨハネ6章22節からのテキストはそこから始まる。

・イエスは自分を追ってカペナウムまで来た人々に、言われた「はっきり言っておく。あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」(6:27-28)。群衆は飢えを満たしてくれたイエスを追い求めて来た。イエスもそれは理解しておられる。しかし、パンよりも大事なものがある。それを与えようとイエスは言われた。

・私たちが生きるためには、肉のパンが必要だ、食べるものがなければ人間は死んでしまう。しかし、本当に人間を人間にするのは、霊の糧だ。どんなにお腹一杯食べても、人はそれだけでは幸福にはなれない。今の私たちは豊かになり、今日の食物を心配することはない。しかし、私たちが幸福かと言えば、そうでもない。「人はパンだけで生きるのではない」(マタイ4:4)。イエスは言われた「肉のパンを食べても翌日にはまたお腹が空いてしまう。あなたがたにパンが必要なことは父なる神がご存知であり、必要な時には与えてくださる。あなた方は私が5つのパンで5千人を養うしるしを見たばかりではないか。それこそ神が与えられたしるしだ。生活に必要な肉のパンは父が与えてくださるから、肉のパンは父に委ねて、あなたは人間として必要な生命のパンを求めなさい」。群集は答えた「そのパンを私たちに下さい」(6:34)。それに対してイエスは答えられた「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)。


2.群集のつぶやき

・イエスは「私こそ天から下ってきたパンであり、私を信じて、従ってきなさい」と言われた。イエスの答えに対して群集はつぶやき始める「私たちが求めているのは、毎日の生存を支える肉のパンだ。しかし、この人は腹の足しにもならない霊のパンを与えると言われる。私たちが欲しいのは、目に見えるパンなのだ。この人はパンを与える力を持っているのに、与えようとしない。この人ではだめだ」。

・イエスは人々に神の愛を伝えるために、必要な時に必要なものを与えてくださる父の愛を示すために、5千人の人を養われた。しかし、人々が求めたのは「もっとパンを下さい」と言うことだった。群集がイエスに求めたことは、自分達の生活を豊かにしてくれることだった。人々はイエスが彼らの望むものを与え続ける限り従うが、イエスの与えようとしておられるものが自分達の欲するものと違い始めると、イエスから離れ始める。マタイ19章にある金持ちの青年もそうだった。彼は永遠の命を求めてイエスのもとに来た。イエスが「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい」と言われると、その青年は悲しみながら立ち去った。マタイは記す「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」(マタイ19:22)。

・私たちが信仰者になっても苦しみや悲しみがなくなるわけではない。信仰しても病気が治らないこともある。逆に信仰ゆえに苦しみが与えられる時もある。信仰ゆえに家族や会社から孤立することもある。苦しみの中で、私たちはこの苦しみや悲しみを取り除いてくださいと主に祈る。そして、自分の願いがかなわなければつぶやき始める「主の手は短すぎて何も出来ないのではないか。信仰する甲斐がないではないか」。こうして、私たちは教会からも離れていく。先日の執事会で私たちは篠崎教会のこれまでの歩みを検証した。1980年から2000年までの20年間に70人の方が、この教会で洗礼(バプテスマ)を受けられた。そのうち、今も現在会員として残っておられる方は10名に満たない。多くの人は今もなお、この教会に籍を残しておられるから、在籍会員は100名を超えるが、礼拝に出席される方は20名に満たない。一旦信仰を与えられても、信仰から離れて行く人が多い。悲しいが、これが現実なのだ。


3.つぶやきを超えて

・今日の招詞にヨハネ6:68-69を選んだ。今日のテキストの続きのところだ。イエスの言葉に躓いて、多くの人がイエスの元から去っていった。5000千人の群集はいなくなった。弟子たちの中にもイエスから離れていく者が出た「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(ヨハネ6:66)。イエスは残っている弟子たちに問われた「あなた方も離れて行きたいか」。それに対してペテロが答えた言葉が今日の招詞だ。「シモン・ペトロが答えた。『主よ、私たちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。』」

・ガリラヤで、イエスの言葉につまずいて、多くの弟子たちが去って行った。しかし、12名は残された。神の業はこの12人によって担われ、この12名から教会が生まれて行った。今日では世界の20億人がイエスの前に跪く。神の業は残された者から始まるのだ。先日のNHKテレビ「私はあきらめない」で『クミコ』と言うシャンソン歌手が出ていた。今評判の歌手だが、彼女は20年間全く売れなかった。シャンソン喫茶を足場に活動していたが、ある時などは観客が一人しかいず、「自分は必要とされていない。誰も私の歌を聞きたいとは思わないのだ」と絶望した。彼女はそれでも歌い続け、やがて『松本隆』という作詞家と出会い、彼の曲を歌い始めてから、人々に注目されるようになった。彼女もまた、残された一人の観客から、今日の隆盛をつかんだのだ。

・福音には肉の人を躓かせるものがある。パウロが言ったように「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの・・・しかし、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えている」(〓コリント1:23-24)。先ほど、篠崎教会でバプテスマを受けた70人の方のうち、大半の人は教会を去っていったと述べた。それは悲しいが、しかし、10名の人は残されたという事実は神の祝福であると思う。神は必ず残る者を用意され、その残りの者から新しい教会を起こされる。私たちもまた、みんなが去っていく中で「主よ、私たちは誰のところに行きましょうか。どこにも行きません。ここに残ります」と信仰告白したのだ。神はこの残された者である私たちを通して、教会を造っていかれる。

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