1.金持ちとラザロの話
・イエスは人々に『不正な管理人』の話をされた。人は神から財産や賜物を委託されており、それを自分のためだけに用いる時、それは委託された財産を不正に用いることだという話だ。この話を聞いてパリサイ派の人々は「そんなことはない」とイエスをあざ笑った(ルカ16:14)。彼らは今自分達が金持ちであるのは神の祝福があるからであり、呪われている貧乏人のために何かをする必要はないと思っている。そのため、イエスはもう一つのたとえ話をされた。それが今日学ぶ「金持ちとラザロの話」である。
・物語は三幕の劇のようだ。第一幕には金持ちとラザロの二人が登場する。金持ちは「紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」(16:19)。彼は別に浪費家でもなく、また、雇い人を搾取しているわけでもない。彼はただ、自分に与えられた富を自分のためだけに使っているだけだ。その金持ちの屋敷の門のところには貧乏人ラザロがいた。ラザロは飢えと病気で動けなかった。金持ちの食卓から落ちるもので腹を満たしたいと思っていたが、金持ちはラザロには何の関心も示さず、ただ犬が来てラザロの傷をなめるだけだった。第一幕では、金持ちは金持ちのまま、貧乏人は貧乏人のままだ。
・第二幕は22節から始まる。ラザロは死に、金持ちもまた死んだ。二人とも死んだが、ラザロは天国でアブラハムと宴席についており、金持ちは陰府で火に焼かれている。第一幕では金持ちは贅沢に飲み食いし、ラザロは食べるものもなかったが、第二幕では立場は逆転し、ラザロが宴席に着き、金持ちは地獄で苦しんでいる。金持ちは苦しさのあまり、天国にいるアブラハムに呼びかけた「父アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください。私はこの炎の中でもだえ苦しんでいます」(16:14)。生前に金持ちはラザロを貧乏人と馬鹿にしていた。今でもラザロを自分の召使のように思っている。「ラザロを寄越して、私の苦しみを軽減させてください」と彼は求める。金持ちはラザロの名を知っている。彼は屋敷の門前にラザロが食べるものもなく苦しんでいたことを知っていたのだ。そして何もしなかった。
・ラザロを宴席に招いたアブラハムは冷たく答える「思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」(16:25)。ラザロは人間からは全く無視されたが、神からは尊ばれたのだ。もう、彼はお前の使い走りはしないのだ。また、こちらからそこに行こうとしても、間には大きな淵があって行けない。自分しか考えないもの達の国と神の国の間には開きがありすぎるのだ。前にはラザロが金持ちに懇願し、金持ちは拒否した。今度は金持ちの願いが拒まれる。
・三幕目は27節からはじまる。金持ちは言う「私のことはあきらめました。ただ、私には五人の兄弟がいます。彼らは救いたい。ラザロを兄弟たちの所に遣わしてください。そうすれば兄弟達は悔い改めるかも知れない」(16:27-28)。金持ちは初めて自分以外の人のことを考えた。しかしまだ、ラザロを自分の使い走りのように考えている。アブラハムはこの願いも拒絶する「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」。どう生きるべきか、何をなすべきかは「律法と預言者」に、すなわち「聖書」に書いてあるではないか。神の御心が書かれている聖書の言うとおりにすればよいのだと。金持ちは反論する「私も聖書は読んでいましたが、悔い改めることはしませんでした。もし、死者が生き返る等の奇跡=しるしが与えられれば兄弟達も信じるでしょう」。アブラハムは再度拒絶する「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(16:31)。
2.例えの意味するもの
・この物語は因果応報を教えたものではない。今は貧しくとも来世では豊かになるから、現世での苦しみを耐えなさいと言われているのではない。金持ちは金持ちゆえに地獄に落ちたのではないのだ。彼は苦しむ隣人を憐れまなかったから地獄に落ちたのだ。富が悪いわけではない。しかし、その富を自分のためだけに使うことは、不正な管理人の業であり、責任を問われることなのだ。今、そのことに気づかなければ、救いはないのだ。
・今日の招詞にマタイ福音書25:44−45を選んだ。次のような言葉だ「すると、彼らも答える。『主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか』。そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである』。」
・私たちが子供を持つ時、その子は神から預かった子だ。だから食事を与え、身の回りの世話をする。もし私たちが食事を与えず、子供が死んだら私たちは責任を問われるだろう。同じように、私たちは、飢えている人に食べ物を与え、渇いている人に飲み物を与え、旅人に宿を提供し、裸の者に衣服を与えるために富を与えられているのだ。それをしないとき、それは責任を問われる行為なのだ。富を自分のためだけに用いるとき、それは地獄に落ちるほどの罪なのだと聖書は言う。「この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである」のだ。
・「世界が100人の村だったら」、先週紹介した本だ。それによれば、世界の富の60%は6人が持つ。教会で行われる「主の晩餐式」を考えてみよう。晩餐式のため、100個のパンが用意された。最初の6人には10個ずつ配られる。次の6人には3個ずつ、次は1個ずつ、ここで84個が配られ、残りは16個だ。これは誇張ではない。ヘラルド・トリビューン紙の調べでは、豊かな20%の人が世界の収入の89%を持つ。次の6人には半分ずつ、その次は1/4、次は1/8、順に1/16,1/32となっていく。最後の人たちにはパンを配ることが出来ない。主の晩餐式が神の面前で為されるとき、神はこれを受け容れられるだろうか。そうとは思えない。だから何かの行動が必要なのだ。たくさん持っている人は半分を、少し持っているものは十分の一を隣人に分け与えるべきなのだ。「金持ちと貧しいラザロの話」が私たちに教えるのは、そういうことだ。
・アルベルト・シュバイツアーはその半生をアフリカの医療のために捧げた人として有名だ。彼が、シュツトラスブルク大学の教授の職を捨てて、医者として赤道アフリカに行ったきっかけは、30歳の時にこの『金持ちとラザロの話』を読んだのがきっかけだ。彼はその自伝「水と原生林のはざまで」という本の中で次のように述べる「金持ちと貧乏なラザロとのたとえ話は我々に向かって話されているように思われる。我々はその金持ちだ。我々は進歩した医学のおかげで、病苦を治す知識と手段を多く手にしている。しかも、この富から受ける莫大な利益を当然なことと考えている。かの植民地には貧乏なラザロである有色の民が我々同様、否それ以上の病苦にさいなまれ、しかもこれと戦う術を知らずにいる。その金持ちは思慮がなく、門前の貧乏なラザロの心を聞こうと身を置き換えなかったため、これに罪を犯した。我々はこれと同じだ」。彼は30歳の時に医学を学ぶことを決意し、38歳で医者として赤道アフリカに赴いた。
・私たちはシュバイツーではない。しかし、同じように「金持ちとラザロの話」を読んだ。何かを行う事が求められている。最後にヤコブの手紙2:14-17を読もう。「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」