1.ゲラサ人の地
・イエスはガリラヤ湖の向こう岸、ゲラサの地に来られた。今日のヨルダン地方。ユダヤ人にとって、異邦の地、汚れた地、律法が不浄とみなす豚を飼っている地。そこで、ひとりの男に会われた。
・男は町に住むことを許されず、墓場(洞窟)に追いやられ、鎖や足かせで身を繋がれ、夜昼叫び、石で自分の体を傷つけていた。精神を病む人。何故そうなるのか、わからない。当時は、このような人は汚れた霊がついていると思われていた。
・今日でも精神を病む人は多い。そして、精神を病む人が自分を傷つけたり他人を傷つけたりする恐れがあれば、法律により強制入院させられる。精神病院の大半は閉鎖病棟であり、治療と言うよりも隔離に近い。まさに町から追い出され、鎖や足かせで身を繋がれている。この男の置かれている社会的状況は2000年前の見知らぬ地の出来事ではない。
・この男はイエスを見ると遠くから駆け寄り、ひれ伏して言う「あなたは私と何の関わりがあるのですか。どうか、私にかまわないで欲しい」。イエスは男に名を聞かれた。男は答えた。「レギオン、大勢ですから」。レギオンはローマの軍団(6000人隊)の名前だった。ある聖書学者は想像する「この人は家族を目の前でローマ軍に殺されて、それが契機になって狂気になったのかも知れない。だからレギオンと名づけられた。デカポリス地方はローマの植民地とされ、ローマは暴虐な支配者だった。悪霊とはローマ軍のことかも知れない」。
・現代においても悪霊は存在するのだろうか。数年前には、ユーゴスラビアにおいて、大勢の子供たちが目の前で父や母を殺された。子供たちは心身に大きな傷を受けた。ユーゴでは、違う民族が長い間、平和に共に暮らしていた。あるとき指導者が、私たちは誇り高いセルビア人で隣は憎むべきイスラム教徒であると叫び、その声に踊らされて、人々が殺し合いを始めた。何故、人々は殺しあうのか。何が人間を狂おしいほど残虐にするのか。聖書はそれを悪霊、レギオンの故と言う。この悪魔の力を打ち破るためにイエスは来られた。
2.町の人たちはイエスを喜ばない
・イエスは悪霊たちに、この男から出ていけと言われた。悪霊たちは豚の中に入らせて欲しいと願った。悪霊たちが乗り移った豚は狂気に駆られて暴走し、湖に沈む。豚飼いは驚いて人々を呼びにいく。人々が来て、自分たちの豚が湖に沈んでいるのを見、男が正気になっているのを見た。
・人々にとって男が正気になったのは何の喜びでもなかった。既に棄てていた。人々にとって豚2000匹は何千万円もの価値がある。人々にとって、豚は男より大事だった。イエスにとってこの男は豚よりも大事である。だから、豚を犠牲にしても癒した。あるいはイエスはこの男を豚数千匹の命で贖われた。ゲラサの人々にとって、イエスは生活の安定を脅かす人、自分たちの大事な財産を犠牲にしても一人の男を救おうとされた人。だから出て行って欲しいと頼んだ。
3.我々にとってこの物語は何なのか。
・悪霊につかれたゲラサの男、今日で言えば、精神の病に苦しむ人々は日本でも100万人もいる。そのうち30万人は入院している。
・吉祥寺病院(調布市深大寺)で始めて精神障害の人を知った。
―大学の牧会カウンセリングの授業で1年間通った。
―体の病気の場合、患者も家族も、早く治って社会復帰したいと願う。
―精神の病気の場合、患者も家族も、もうだめだ、治らないと諦める。5年、10年、さらには20年も入院する人がいる。治っても帰るところがない。30万人の入院患者のうち30%の人は在院期間が10年を越える。
―ゲラサの男は夜昼叫んで、体を傷つけていた。希望がないからである。吉祥寺病院にも同じ絶望があった。この絶望の叫びを聞いて、イエスはこの男を憐れまれた。私たちはどうするのか。
4.聖書に聞く。
・マルコはこの物語がイザヤ書65章の預言の成就と理解している。
イザヤ65:3-4「この民はまのあたり常にわたしを怒らせ、園の中で犠牲をささげ、かわらの上で香をたき、墓場にすわり、ひそかな所にやどり、豚の肉を食らい、憎むべき物の、あつものをその器に盛って、言う。あなたはそこに立って、わたしに近づいてはならない。わたしはあなたと区別されたものだから」と。」
・異邦の民は園(聖所)の中で犠牲を捧げ、かわらで作った祭壇の上で偶像の神に香をたいて礼拝を行う。墓場に座って死者の霊を呼び、穢れた豚肉や憎むべきものを食べる。そして言う「自分たちに近づくな。我々にかまうな」。ゲラサの男は墓場に住み、イエスを見ていった「私にかまわないでくれ、私と何の関わりがあるのか」と。それでもイエスはこの男と関わりを持たれた。
・かまわないでくれと言う民に神は関わりをもたれる。イザヤ65:1-2「わたしはわたしを求めなかった者に/問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に/見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、『わたしはここにいる、わたしはここにいる』と。よからぬ道に歩み、自分の思いに従う、そむける民に、わたしはひねもす手を伸べて招いた。」
・そのような民に神は進んで関わられる。神は求めなかったものに、尋ねなかったものに言われる「私はここにいる、私はここにいる」と。
・イエスはこの男と関わりを持たれた。
―イエスは来る必要のない異邦人の地に来られた。
―イエスは声をかける必要のないこの男に声をかけられた。
―イエスは土地の人から疎まれる危険を冒して男を憐れまれた。
5.その結果、交わりが回復する。・イザヤ書は続く(65:24―25)。
「彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。おおかみと小羊とは共に食らい、ししは牛のようにわらを食らい、へびはちりを食物とする。彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく、やぶることはないと主は言われる。」
・神は自ら進んで我々と関わりを持たれる。その結果、交わりが回復する。狼が子羊を襲うことなく、共に草を食べ、ししが牛を襲うことなく、共にわらを食べる。へびも人を襲わない。ここに神の国が、狼と子羊が共に住み、ししと牛が共にやすらう国が生まれる。この男は、イエスが関わりをもたれることで、人間社会に復帰できた。その交わりなかから神の国が生まれる。
・しかし、私たちの現実の社会の中では、精神病院から退院できるのに行き先がないため病院に留まる多くの人がいる。また、自宅に戻っても職業に就けない人も多い。神の国は隣人が苦しんでいるのに私たちが彼らに関心と哀れみを持たない時、私たちの近くにはない。神の国はイエスがゲラサの男と関わりを持たれた中に生じたように、私たちが吉祥寺病院に入院する人たちと関わりを持つとき生まれる。
・ゲラサの男はイエスが進んで関わりをもたれ、悪霊を追い出されたことにより、隣人との交わりを回復した。癒された男はイエスに従いたいと言ったがイエスは「帰りなさい」といわれた。この男は家に帰ってイエスを証した。彼は主の恵みを証しする者となった。そして、私たちもまた、主が私たちにしてくださったことを証するために教会で訓練され、教会から出て行く。出て行って何をするかは個々人に委ねられている。
・聖書は一人で読むときには単なる物語である。私たちにどのように関わるのか、分からない。しかし、教会の中で共に読むときに神の言葉となる。教会は神の国の前線基地なのである。聖書は私たちへ語りかけている。語りかけに答えて、私たちもこの男のように出かけて行きなさいと言われている。