1.イエスのバプテスマ
・聖霊降臨節を迎え、しばらくマルコ福音書から聖霊について学びたい。マルコ1章はイエスの宣教の始めを記す。イエスはバプテスマのヨハネがヨルダン川東岸の荒野で人々に悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた時、故郷のナザレを離れてユダに来られた。恐らくはヨハネの評判が遠いガリラヤまで伝えられ、イエスもヨハネからバプテスマを受ける為に来られたものと思われる。マルコ1:4-5「バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた。そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。」
・バプテスマを受けてイエスが水から上がられると、天が裂け、聖霊がはとのように下り、声が聞こえたとある。
マルコ 1:10-11「そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。すると天から声があった、あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」
・イエスはこの時、自分が神の子であり、使命を与えられてこの世に遣わされたものであることを自覚された。イエスの召命である。私たちがここで知るべきことはイエスが水のバプテスマを受けられ、そのバプテスマを通じて聖霊と神の祝福をいただいたという事実である。イエスはこのバプテスマを契機に、それまでのナザレのイエスという一個人ではなく、神の子としての生涯を歩まれた。私たちも悔改めて水のバプテスマを受けることにより、聖霊を受け、旧い自分に死に、新しい自分に生きる。
2.バプテスマの後、イエスは荒野でサタンの試みに会われた。
・しかし、イエスはすぐにその宣教の業を始められた訳ではない。バプテスマの後、イエスは霊に導かれて荒野に行かれたとある(12節)。その荒野で四十日の間、サタンの試みに会われた。荒野にはサタンと獣がいた(13節)。私たちは荒野を恐ろしいところと思うが、聖書では荒野は決して恐ろしいところではなく、むしろ人を育て成長させる場と考えられている。エジプトを出た民が導かれたのは、海沿いの平坦な道ではなく、荒野であった。水もなく食べ物もない荒野では、人は自分の力では生きていくことが出来ない、その時私たちは自分たちを養ってくださる神に出会う。そして神の保護、導きの中に今自分があることを知ることにより、神を依り頼んで生きる民に変えられていく。同じ様にイエスも神の子としての訓練を受ける為に荒野に導かれる。
・荒野にはサタンがいた。私たちはサタンあるいは悪魔は、自分の外部にいる化け物のような存在と思うが、実はサタンは私たちの中の罪の思いである。マタイ15:18-20「口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。」、サタンは外にいるのではなく、私たちの心にある、自分は一人で生きていけるという、奢り高ぶる罪の思いである。
・13節にでてくるこのサタンはイエスの心の中にあった人間的な思いであったと思われる。それはマタイ4章に詳しく記されている「荒野の誘惑」の記事を見れば明らかだ。自分は神の子であると自覚されたイエスはどのようにすれば神の国が来るのか、どのようにすれば人は救われるのかについていろいろ思い悩まれた。そのとき、多くの人間的思い、サタンの誘惑がイエスを襲った。その人間的な思い、サタンは言う。
―神の子であれば人々を救うために来たのであろう。今、多くの人々が貧しさのために飢えに苦しんでいる。もし、おまえがこれらの石をパンに変えれば彼らの命を救うことができるではないか。
―おまえが神の子であれば、今、この高いところから飛び降りて、神の子であるしるしを見せてみよ。そうすれば、多くのものがおまえを神の子と信じ、神の国を造れるではないか
―おまえが神の子であれば、この地上に神の国を立てよ。人々は今、ローマの圧制に苦しんでいる。このローマを倒し、人々を解放すれば、ここに神の国ができるのではないか。
イエスは祈りによりそのサタンの誘惑を退け、ただ父なる神に依り頼むことこそ神の国をもたらすことを、この荒野の試練の中で悟られた。マタイ福音書の中には、そのようなイエスの言葉が残されている。
―マタイ4:4「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」
―マタイ4:7「主なるあなたの神を試みてはならない」
―マタイ4:10「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」
イエスが言われたこれらの言葉こそが、イエスが荒野の試みの中で到達された悟りを示していると言えよう。
3.荒野には獣もいた。
・荒野には獣もいた。しかし、獣たちはイエスに何の害も及ぼさなかった。私たちは獣を怖いと思うが、本当に怖いのは獣ではない。ニューヨークのブロンクス動物園には大きな鏡があるそうだ、人がその鏡に自分の姿を映し出したとき、その鏡に書いてある文章が目に入ってくる「Most Dangerous Animal―最も危険な動物」。最も危険な動物は今鏡に映っているあなた、人間だと鏡は語る。ライオンも狼も自分の食料として必要な時以外は他の動物を殺さないし、また仲間同士で殺しあうこともない。人間だけが自分の欲望を満たす為に互いに殺し合い、その殺し合いを国を守る為、社会を守る為、家族を守る為と正当化して恥じない動物だ。正に平気で他者を殺す人間こそ最も危険な動物である。荒野には獣はいるが人間はいない。荒野はイエスにとって危険なところではない。むしろ、これから行かれる人の住む町や村こそ危険に満ちている。
・14節「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた」。イエスはしばらくヨハネのもとにおられ、ヨハネの逮捕を機にユダを離れられて故郷のガリラヤに帰られたとある。ヨハネは時の権力者ヘロデ・アンテイパスの不正を指摘したため捕えられ、やがて殺される。イエスもこれから世の罪を批判し世に悔改めを求める時、世から捕えられ殺されるであろう事を知っておられた。正に荒野こそイエスにとって安全な場所であり、人の住むところこそ危険な場所、その危険な場所にイエスはこれから行かれる。
4.荒野では御使いたちがイエスに仕えた。
・現代の荒野、キリスト者が行くべき場は教会ではないかと思う。荒野にはサタンがいた。私たちはこの世を生きるために、様々な人間的な思いで考え、判断し、行動する。日常生活の中で、神に依り頼んで生きることは少ない。その人間的な思いをもって教会に集まる。その私たち自身の心の中の思いがサタンだ。教会にはサタンがいる。
・荒野には獣がいた。教会の中に罪があり、教会の中に悪がある。教会には獣もいる。しかしなお、教会は神に従う。教会は人の住む町や村のように危険なところではない。
・イエスが荒野でサタンの誘惑を受け、獣たちに囲まれていた時、御使いたちがイエスに仕え、イエスの身は安全であった。教会では社会的に偉いとか、人間的に立派であるとかは価値の基準には成らない。神の前では皆罪人である。自分を罪人と知るものは他人を罪人として裁かない。教会は御使いたちの仕える場である。
・イエスはしばしば人々から逃れ、寂しい所に行かれて祈られた。私たちも毎日忙しい生活をしている。日曜日に教会に集まることはある意味で試練だ。仕事の都合や家庭の事情で主日礼拝を守れないことも多い。しかし、万難を排して主日に教会に集まり、神の言葉を聞き、祈ることは必要だ。エペソ1:23「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」
教会はキリストのからだであり、御使いたちが仕えている場である。イスラエルが民として荒野で養われたように、私たちも共同体として教会で養われる。教会に来て礼拝を守る。私たちは日曜日に集まるのではなく、集められているのだ。ここで命のパンである神の言葉を与えられ、養われるのだ。食事をしないと人間は生きていくことが出来ないように、キリスト者は教会にきて礼拝することによってその信仰が養われる。礼拝を通して私たちの命は再生していく。
・イエスさえも上から力をいただかないと何もお出来にならなかった。故に、たびたび寂しいところに退かれて祈られた。最期に荒野についてのマザーテレサの言葉を共に聞きたい(「マザーテレサの旅路」232頁)
「神は騒音や落ち着きのないところには見出せません。神は静けさの友なのです。
無言の祈りの中に、多く受け取れば受け取るほど、活動の中で多く与えることができるのです。
人の魂にまで届く影響を及ぼすためには、静けさが必要です。根本的なことは自分が何を言うかではなく、神がこの身を通して人々に何を示されようとしておられるかです。
沈黙の中で、神のかほそき声に聞き入る人のみが、神の期待に応えることができるのです。」
荒野に行く、教会に集められる、このことこそが私たちの命の源なのである。