1.羊飼いの例え
・今日は4月第二主日、今年はイースター(復活日)が3月31日であるため、教会歴では復活節第三主日になる。教会では復活節第三主日には伝統的にヨハネ10章を読んできた。11節「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。イエスは羊の群れのために命を捨てられた。復活節第三主日の今日、羊飼いイエスを通して受難と復活の意味を学びたい。
・ヨハネ10章の羊飼いの例えはユダヤ人、直接的にはパリサイ人に対して話されている。10章6節「イエスは彼ら(パリサイ人)にこの比喩を話されたが、彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか、わからなかった」。この例えがパリサイ人に対して語られていることを知ることは重要だ。パリサイ派が何を行ってきたかを知ることで、良い羊飼いと悪い羊飼いの意味が明らかになる。イエスの時代、ユダヤ社会の指導者であったパリサイ派は神から与えられた律法を守れば救われる、即ち救いは人間がよい行為をすることによって来ると考えた。善人は救われ、悪人は滅ぼされる、どの宗教もそういう。パリサイ人はそのために律法の規則を細部まで守ることを人々に求め、人々が律法違反をしないかどうかを監視していた。律法は本来的には創造主である神を愛し感謝するという行為であるが、時代が経つに従い、その精神は失われ、規定だけが先行する状況になっていた。例えば「神を愛する」という基本的な戒めが、やがて「神を愛するためには一日3回祈らなければならないとか、安息日に働くものは神を愛さないものであるとか、障害のあるものは神の呪いを受けており、神を愛さないから障害が与えられたのだ」とか人間的な思いで、細分化され厳格化されていき、本来は福音である律法が、人々を憩わせるものではなく重い荷を負わせるものになっていた。多くの指導者たちは「ああしろ、こうしろあるいはああしてはいけない、こうしてはいけない」と命令するだけで、民の平安のことはまるで考えない。そのため「群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れている」(マタイ9:36)状態であった。
2.偽りの羊飼い
・イエスは言われた「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった」(10:7−8)。パレスチナでは羊が外に迷出でたり、野獣に襲われるのを防ぐために、石を積んで羊の囲いを作る。羊飼いは朝、羊を囲いから連れ出し、牧草地に導いて草を食べさせ、夜は囲いの中に憩わせる。他方、泥棒や強盗たちは夜柵を乗り越えて羊を奪い、これを殺す。パリサイ派や律法学者たちは民を導くという役割を与えられながら、その役割を果たさない。
・イエスは彼らを批判して言われた「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから」(マタイ23:2−3)。彼等は言うだけで実行しない。彼等がやることは「すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札(聖書の言葉を書いた札)を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、また、宴会の上座、会堂の上席を好み、広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる」(マタイ23:5−7)。彼等は民に仕える事をせず、民から仕えられることを求める。彼等は良い羊飼いではない。
・何時の時代でも指導者は民のことではなく、自分たちのことしか考えない。旧約の時代に置いてもそうだ。イエスの時代から500年前の預言者エゼキエルは言う「わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。牧者は群れを養うべき者ではないか。・・・あなたがたは脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものをほふるが、群れを養わない。あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている。彼らは牧者がないために散り、野のもろもろの獣のえじきになる」(エゼキエル34:2−5、旧約1198頁)。
・これはイスラエル王国末期の支配者達に言われた言葉である。王達は民のことを考えずに自分たちの利益だけを守る。民が食べることが出来ず、着るものも無い生活をしている時も、支配者たちはは民から取り上げた税や賦役で自分たちは美味しい脂肪を食べ、毛織物を着る。何時の時代でもこの世の支配者はこうだ。指導者が民を養わず、自分を養う。エゼキエルの時代もそうであったし、イエスの時代もそうであった。民は牧者がいないために荒野をさまよい、獣たちの餌食になっている。現在の日本における政治の貧困も正にこうである。選挙で選ばれた公僕のはずの議員が国民のためではなく、自分たちの利益のために行動している。
・イエスは言われる「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(10:10)。誰かが指導者に任命されるとしたら、それは自分を誇るためではなく、群れに仕えるためだ。イエスは最期の晩餐の時に弟子たちの前に跪き、彼等の足を洗われた。そして続けて言われた「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる」(10:11)。羊の雇い人、お金のために羊を預かるものは狼が来ると羊を捨てて逃げる、彼は羊のことを気にかけていないからだ。しかし、良い羊飼いは群れを守るために命がけで戦う、その結果命を落としさえする。イエスは言われる「私は羊のために命を捨てる」(10:15)。
・イエスはご自分の群れを守るために十字架に死なれた、そして、そのことを通して神に良しとされて復活された。17−18節「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。
3.私たちにとっての良い羊飼い
・イエスはその群れのために死なれた。故にヘブル書はイエスを羊の大牧者と呼ぶ(ヘブル13:20)。この大牧者は世を去るにあたり弟子ペテロに言われた「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」(ヨハネ21:7)。そして「私を愛するか」と三度繰り返された。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい」(ヨハネ21:17)。本当の羊飼いはイエスのみである。欠陥の多い人間は真の羊飼いになることは出来ない。それにもかかわらず、イエスは、十字架の時、イエスを三度裏切ったペテロに彼の群れを飼うように命じられた。そしてペテロは自分が世を去るとき、その群れの世話を教会の長老、執事に託した「あなたがたのうちの長老たちに勧める。・・・あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。」(1ペテロ5:1−4)。
・ここに教会の職制が生まれてきた。神の群れ、即ち教会を牧する羊飼いはイエス・キリストのみである。イエスは昇天される時ペテロにその業(牧会)を委託され、ペテロは死ぬ前に、長老たちに牧会を委託した。今日においては、牧師がイエスの委託に応じてその羊を飼う。牧師、その名の通り、羊を牧するものである。牧師が教会に集う群れを養う責任が与えられるのは彼が人格的に立派であるとか、指導力があるとか、神学の学びを行ったとかではなく、あくまでもイエス・キリストからの委託に基づく。そして牧師の職分は自分を養うことではなく、群れを養うことだ。群れを養うとは「弱ったものを強くし、病んでいる者を癒し、傷ついたものを包み、迷出でたものを引き返らし、失せたものを尋ねる」(エゼキエル34:4)ことである。
・良い牧師とはヨハネ10章にある良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。イエスは自ら十字架につかれてそれを示された。真の牧師はイエスの委託により、その託された群れを守るために自己の命を捨てる。多くの牧師はそのことを知り、自分の役割を理解する。しかし、その弱さ故に羊よりも自分を大事にする。エゼキエルの表現によれば「群れを養わないで自分を養う」、牧師が群れを養わないで自分を養い始める時、教会の中に争いが起きる。私もその危険性を持つ。教会のためと言いながら自分のために物事を行おうとする。然し、私はイエス・キリストの委託により、この教会の牧師に任ぜられたと信じる。私がこの教会のために命を捨てるならばこの教会は祝福を受けるだろうし、教会のことよりも自分のことを優先するならばこの教会は衰退するだろう。良い羊飼いとは誰か、皆さんが招聘したこの牧師が良い羊飼いになりうるのか、皆さんはこれからの牧師の働きを見守っていく責任がある。そこにおいては、「牧師も人間だから」という言い訳は通用しない。もし牧師が道を誤り始めたら、皆さんは「教会の頭はキリストである」ことを牧師に思い起こさせる役割を持つ。
・今日の招詞にエゼキエル書34:15−16を選んだ。
「わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。」
・この言葉は牧師にとって重い言葉だ。群れを飼うことをせず、自分を飼う牧師は神からその任を解かれる。そして神自らが羊を飼われる。神から解任されることのないように祈って牧師職を務めたい。そして「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」ことを忘れないようにしたい。
・羊飼いにより囲いの中に入れられ、守られている私たちは神の平和の中でこの人生を生きる。しかし、この囲いにいない群れがいる。「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう」(ヨハネ10:10−16)。私たちは神から平安を与えられている者として、感謝の礼拝を守る。同時に平安の中にいない人のために福音を伝道していく。礼拝と伝道、この二つを中心にして新しい篠崎教会を共に形成していきたい。