1.復活の証人の話を聞く。
・ルカは、十字架に死なれたイエスが三日目に復活されて、エマオに向かう二人の弟子たちに現れたと記す。イースターの今日、エマオの出来事を通して復活の話を聞きたい。
・ルカによれば、「この日、二人の弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオと言う村に向かっていた」(13節)とある。この日、週の始めの日、イエスが十字架で亡くなられて三日目の日であった。エマオまでの道のりは七マイル(原文では60スタデイオン)、11キロ、歩いて三時間の道のりである。
・弟子の一人はクレオパ(18節)、もう一人はその息子のシモンであったと言われている。クレオパまたはクロパ。このクロパの妻はイエスの十字架に立ち会っている(ヨハネ19:25)。おそらく、彼等の家はエマオにあった(29節)。彼らは過ぎ越しの祭りに神殿に参詣するために、一家でエルサレムに行った。そこでイエスの十字架を目撃し、失意の中に、親子で、エマオに帰るところであったと思われる。
2.失意の弟子たちにイエスが近づかれた。
・「彼らは一切の出来事について互いに語り合いながら道を歩いていた」(14節)。何を語っていたのか、おそらくは、イエスが死なれて望みは絶たれたと言う嘆きと、今朝、仲間の婦人達が経験した不思議な出来事(1―12節、婦人達がイエスの墓に行ったところ、墓の石が転がされて死体が無くなっていたこと)等について、ため息混じりに話し合っていたのであろう。
・そこにイエスが近づかれて、彼等と一緒に歩かれ、「何を話しているのか」と尋ねられた(17節)。しかし、二人はその同伴者がイエスであることに気がつかない。
・「二人は悲しそうな顔をして立ち止まった」(17節)とルカは書いている。何故、悲しいのか。二人はイエスこそイスラエルを救うメシヤであると思っていたのに、彼は殺され、希望は挫かれた(21節)。そして神はイエスを救うために何もされず、彼等の信仰は打ち砕かれた。更にまた、今朝は、女たちがイエスの墓に行ったところ、死体さえも無くなっていた。彼らは二重、三重に打ち砕かれ、悲しそうな顔をしていた。そして彼らは旅人の質問に、堰を切ったようにその苦しみと失意を語り始めた。
・その彼等にイエスは「愚かで心の鈍い者達」(25節)と言われた。この二人はイエスの体が取り去られた事実を婦人たちから聞きながら、イエスが復活されたとは信じていない(23節)。それでもイエスが彼等に聖書の解き明かしをされ、メシヤは苦しみを通して復活すると書いてあるではないかと語リ続けられることによって、弟子たちの心は次第に信じる世界に帰って来た。彼らは旅人の話にただならぬものを感じ、目的地のエマオに着いた時、先を急ごうとする旅人をしいて引き止めた(29節)。
3.二人はやっとイエスが分かった。
・イエスは二人の求めに応じて、家に入られ、食事の席につかれた。そして、イエスが「パンを取り、祝福して裂き、彼等に渡された時、彼等の目が開け、それがイエスであることがわかった」(30―31節)とルカは記す。「パンを取り、祝福して裂き」とは最後の晩餐の時、イエスが行われた行為である(ルカ22:19)。
・弟子たちがイエスを認めた時、イエスの姿が見えなくなった。しかし、二人はお互いに言った。「道々お話になった時、また聖書を解き明かしてくださった時、お互いの心が内に燃えたではないか」(32節)。そして「二人はすぐに立ってエルサレムに戻った」(33節)。彼等がエマオに到着したのが夕暮時、食事を囲んだのが6時か7時頃、それからエルサレムまで三時間の道のりであるから、エルサレムに着いて弟子たちに会ったのは10時過ぎであったと思われる。二人は「心が燃えて」じっとしておれなかった。「私たちは復活の主に出会った」ことを語らずにはいられなかった。そのため、彼らは食事をとることも忘れてエルサレムに急ぐ。
・復活は理性で認識できる事柄ではない。現に弟子たちも自分たちの前にイエスが現れるまでは、「愚かなこと」と復活を信じていない。しかし、失意の中にエマオに戻ったクレオパとシモンが、エマオに着くや否や、食事をとることも忘れて、喜び勇んでエルサレムに戻っていった事実は否定できない。
4.復活信仰に動かされて。
・当初、弟子たちはイエスの復活を信じなかった。信じない時、死が全ての終わりであり、死が全てを支配する。死が全ての終わりであれば、私たちには何の希望もない。その時、人は享楽的になり、「私たちは飲み食いしようではないか。明日も分からぬ命なのだ」(1コリント15:32)と言うか、この二人の弟子のように悲観的になり、全ては空しいとため息をつくかのどちらかである。
・復活を信じる時、全ては変る。イエスが分かった時、二人の弟子は言った「私たちの心は燃えていたではないか」。そして、文字通り、走るようにしてエルサレムに戻った。打ち砕かれてエマオに向かう二人と、喜び勇んでエルサレムに戻る彼等の間に何があったかを知って欲しい、ルカはそう語りかけている。
・自分のことを少し話したい。30年前にバプテスマを受け、教会生活を続けてきた。自分では良い夫、良い父、良いクリスチャンだと思っていた。7年前に長男と争いになり、けがを負わせるという出来事が起こった。その日を境に、彼は私と口を利かないようになり、食事も別の部屋で取るようになった。私の顔を見ると、長男は自分の部屋に閉じこもる。そのような毎日の中で、自分は本当にクリスチャンなのだろうか、自分は本当に家族を愛していたのだろうかと攻められ、苦しさの中で、東京バプテスト神学校に入学した。週4回の夜の学びを4年間続けた。2年前に卒業を許され、会社を辞め、牧師になった。ただ、牧師としての学びが足りないことを認識していたので、牧師になると同時に東京神学大学に編入学した。50歳で大学3年生になり、長男と同級生になった。子供の学資や、これからの生活費をどうするかの問題はあったが、それには目をつむり、この2年間は、文字通り朝から晩まで、仕事をするように勉強した。そしてやっと今、学びが終わり、この教会の牧師として赴任してきた。この6年間いろいろのことを学んだが、一番大事なことは何かが少し解りかけてきた気がする。このエマオで弟子たちが言った言葉「道々お話になった時、また聖書を解き明かしてくださった時、私たちの心は燃えていたではないか」、即ち復活のイエスに出会った時の燃える心である。
・イエスの復活を証拠立てる要素は幾つかあろう。婦人たちが目撃した空の墓もその一つである。十字架を前にして逃げ去った弟子たちが復活のイエスに出合って変えられ、もう逃げなくなったと言う歴史的事実もそうであろう。しかし、一番確かな事実は、多くの人たちが復活を自分の出来事として経験したことである。
・詩篇126編が今日の招詞である。
「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう」。
エマオの二人の弟子たちは涙を流しながらエルサレムを出た。その時彼らの心は死んでいた。そしてエマオの出来事を通して生き返り、喜びの声をあげてエルサレムに戻って行った。私自身も6年前、涙を流して神学校の門をたたいた。確かに死んでいた。6年後、学びの時が終わり、喜びの声をあげて今、牧師としてここに立っている。死んだものが生き返る。この出来事がイエス以後繰り返されてきた。私たちが信じる復活の根拠は私たち自身が経験した出来事である。
・世と世の欲は過ぎ去る。私たちもいつか死ぬ。全ては空しい。しかし、空しくないもの、過ぎ去らないものがここにあることを多くの人が見出してきた。新約聖書はギリシャ語で書かれているが、ギリシャ語には命を表わすのに二つの言葉がある。「ビオス」と言う言葉と「ゾーエー」と言う言葉だ。ビオスとは生理学的命、心臓が動いているとか、呼吸をしている等の命である。それに対してゾーエーは人格的な命、人間として生きるという時の命である。人間は動物と異なり、生理学的命だけでなく人格的命も生きる。だから「生きていても仕方がない」と思う時、この生理学的命(ビオス)では生きているが、人格的命(ゾーエー)では死んでいることになる。エマオの弟子たちも、そして6年前の私も生理学的命は生きていたが、人格的命は死んでいた。イエスの復活により、この命が再び生かされた。これが復活の力である。復活の出来事は、私たちが肉体的に死んでも生きると言う出来事であると同時に、今、現在の私たちの存在そのものを決定する出来事である。
・蓮見和男と言う牧師が復活について詠った詩がある(蓮見和男「ルカによる福音書注釈下」新教出版社303頁)。その詩を読んで終りたい。
「人は死ぬ、その生は朽ち果てる、ではその生は無意味だったのか。
誰がその意味を決めるのか、神のみ。
無から有を造り、有を無に帰せしめ、そしてまた、無から有を造り出す神なしには、この人生は無に過ぎない。
しかし、神、愛なる神がいます故、全て意味が出てくる。
死んだ者は、空しく朽ち果てるのではない。
アウシュヴィッツ、ヒロシマの死者は空しく葬り去られるのではない。
生ける者と死せる者の主となられた復活の主はそのことを教える」。