1.約束の地への旅立ち
・今、私たちは、約束された救い主・キリストの降誕を待ち望む、待降節の中にある。「約束を待つ」、そのことの意味を、この数週間に少しずつ学んで来た。ヘブル書からは、約束を待つ信仰とは「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル11:1)と示された。創世記からは、アブラハムとサラが、もはや子を持つことが出来ない高齢になったにもかかわらず、子を与えるという約束を待ち続け、与えられたことを学んだ。今日、私たちは、出エジプト記3章をテキストとして与えられた。この出エジプト記の出来事は私たちに何を伝えるのであろうか。
・出エジプト記3章は、モーセの召命の記事である。イスラエルは、エジプトで奴隷として苦役にあえぎ、神の助けを求めていた。神は民を憐れまれ、エジプトから民を解放する指導者として、モーセを選ばれた。しかし、モーセは、神の呼びかけに躊躇した。「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」(出エジプト記3:11)。私にはそんな力はありませんとモーセは言った。そのモーセに対し、神は言われた「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。」(出エジプト記3:12)。あなたが行うのではなく、私が行う。そのしるしとして、杖を持っていけ。モーセは手に一本の杖のみを持って、エジプトに向かっていった。エジプトからやがて荒野へと、モーセに率いられた民は、旅をする。モーセの手には、神から与えられた杖一本があるだけがある。
・ヘブル書も、私たちの人生は旅であると言う。新しいモーセであるキリストに率いられて、手に一本の杖を持って、約束の地を目指して進んでいく。モーセとその民が経験した旅は、今、私たちが進んでいるのと同じ旅である。今日は、出エジプト記を通して、私たちが現在、歩んでいる旅について、ご一緒に考えて見たい。
2.モーセの召命
・モーセが神と出会った時、彼はミデアンの地で、羊の群れを飼っていたと出エジプト記3章は始める。モーセは前からミデアンの地にいたわけではなく、彼の父と母はエジプトに住む、イスラエル人であった。イスラエル、ヘブル(原語はイブリー)とも呼ばれるが、それは「渡りもの」の意味である。彼らは、家畜を飼って荒野を移動する遊牧の民だった。しかし、族長ヤコブの時代に、カナンで激しい飢饉があり、一族は食べ物を求めてエジプトに南下し、そこに住み着いた。それから400年の時が過ぎ、イスラエル人たちの数が増えた。エジプト王は、寄留の異民族の力が増大することを恐れ、イスラエル人の上にエジプト人の監督を置いて、強制労働に当たらせた。また、人口増加を抑える為に、ヘブル民族の男の赤子は、生まれたら殺すように命じるまでになった。歴史的には、ラメセス2世(BC1290-1224)の頃と言われている。
・モーセはこのような時代に、イスラエルのレビ族の両親から生まれた。両親はモーセを殺すにしのびず、3ヶ月間家に隠していたが、もう隠し切れなくなったで、パピルスで編んだ籠に赤子を入れ、ナイル川に流した。どうせ殺されるならば、川に流して誰かの助けを待つほうが良いと、思ったからである。その籠はエジプト王の娘が拾い、ヘブル人の赤子がエジプト王の一族として育てられるようになった。成人したモーセは、やがて自分がヘブル人の生まれであることを知り、同朋が奴隷として酷使されているのを見て、心を痛める。ある時、エジプト人の監督が、同朋の一人を激しく打っているところを見て憤慨し、そのエジプト人を撃ち殺してしまった。これがエジプト王の知るところとなり、モーセは難を避けて、シナイ半島にあるミデアンの地に逃れた。その地で、彼は祭司エテロの保護を受け、娘チッポラを与えられ、羊を飼うものとなった。
・それから40年の時が流れ、彼はある時、神の山と呼ばれたホレブ(シナイ)に来た。それがテキストの個所である。モーセはホレブで燃えるしばと対面し、その火の中から語りかけられる神の声を聞いた。神はモーセに言われた「いまイスラエルの人々の叫びがわたしに届いた。わたしはまたエジプトびとが彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」(9-10節)。モーセを指導者として立て、イスラエルの民を苦難から救うと神は言われた。モーセはしり込みした「「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」(11節)。モーセはエジプトで人を殺し、追われてこのミデアンに来た。そのモーセに「エジプトに帰って、エジプト王と戦え」と神は言われた。躊躇せざるを得ない。
・躊躇するモーセに神は言われた「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。」(12節)。「私があなたと共にいるではないか、勇気を出せ」と神は言われた。「私が共にいる」、ヘブル語では「エフイエー(私はいる)・イムマーク(共に)」である。ここから「共におられる(イムマーク)・神(エル)」―キリストを意味するインマヌエルという言葉が生まれた。「私があなたと共にいる、その約束のしるしとしてお前に杖を与える、この杖を持ってエジプトへ向かえ」と神は言われた。こうしてモーセは神の命を受け、手には一本の杖のみを持ってエジプトに向かっていった(出エジプト記4:20)。
・神の杖とは、神が共にいましたもうという約束のしるしだ。モーセはただ、この神の約束だけを頼りに、妻と子を連れて、苦難と危険の待ち受けるエジプトに向かった。信仰とは、このように神の約束のみに依り頼んで、全人的に服従することである。そして、神の約束を信じるとは、神以外のものを放棄することだ。モーセは若くて力がある時は、自分の力に頼って同胞を救済しようとして、エジプト人の監督を殺した。しかし、このような力の行使は何の意味も持たない。そのことを学ぶ為にモーセはエジプトを追われ、ミデアンの地で40年間を過ごすように導かれた。そして今、約束を待つことを教えられ、人の力ではなく神の約束にのみ希望をおくことを知らされ、神の召命を受けて、杖一本を持ってエジプトに向かった。
3.一本の杖を持って、約束の地へ
・私たちもモーセと同じ様に、一本の杖のみを持って出かけよと言われている。イエスは弟子たちに杖だけを持って宣教に出かけるように求められた。その言葉(マルコ6:7-9)が、今日の招詞だ。
「また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え、また旅のために、杖一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯の中に銭も持たず、ただわらじをはくだけで、下着も二枚は着ないように命じられた。」
・「杖一本を持って出かけよ」と神はモーセに命じられた。「杖一本を持って出かけよ」とイエスは弟子たちに命じられた。「余分なものは要らない、神が共におられる、その信仰だけを持っていけ」これが私たちの教会にも命じられている。しかし、私たちは言う「杖一本では不安です。もっと下さい」。
・イスラエルの民もそう言った。モーセはエジプトに行き、パロと戦い、民を奴隷の地から解放する。民は喜びの声をあげてエジプトを出て、やがて荒野に向かった。本当の旅はそこから始まった。そして、その旅は、モーセと神にとって、忍耐の連続であった。
―救出された民にエジプト軍が追ってくると彼らは言った「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか」(14:11)。神は海を二つに分けて民を助け、エジプト軍を滅ぼした。
―食べ物がなくなると彼らは不平を言った「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」(16:3)。神はマナを与えて彼等に食べさせた。
―マナに食べ飽きると彼らは言った「エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。」(民数記11:5-6)。
・神が憐れまれたのは、このような民であった。私たちも同じだ。この教会では、数年来、財政の問題に悩まされてきた。教会堂を維持し、牧師を招聘する為には、相応のお金が必要だ。そのお金がない、どうしよう。昨年度、私たちの教会では牧師館の補修を行った。その際、教会堂の屋根と外壁も塗装することを勧められたが、数百万円のお金が必要であり、断念した。しかし、今年になって、バプテスト連盟東京地方連合壮年会から、材料費のみで教会堂の屋根と外壁の補修を奉仕したいとの申しであり、壮年会の働きで教会堂はきれいになった。また、教会では、新館建築時の費用を連盟から借りて毎年返済をしているが、その返済資金が足らなくなり、教会員の方に特別献金をお願いすることになった。そうしたら不足額を賄うだけの献金が与えられた。私たちは必要なものは神が与えてくださることを目の前に見た。しかし、水がなくなれば呟き、パンがなくなれば騒ぐ。
・イスラエルの民は、神の杖、神の約束だけに依り頼んで旅をするように命じられ、そして必要なものは与えられた。約束の地を前にして、モーセは次のような神の言葉を民に取り次いでいる(申命記8:2-5)。
「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。・・・四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。」
・今日、私たちは改めて、神の約束は確かであり、その約束に依り頼んで歩くとき、「あなたの着物はすり切れず、あなたの足ははれない」事を知った。私たちには神の杖が、必要なものは与えるとの神の約束がある。この杖一本を持ってこの篠崎の地に、神の教会を立て上げ、宣教を続けることを今日、ご一緒に確認したいと願う。