江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2002年8月4日説教(マルコ10:13-16、幼子のようであれ)

投稿日:2002年8月4日 更新日:

1.幼な子を連れて来た人々をいさめる弟子たち

・「イエスに触っていただくために、人々が幼な子をみもとに連れて来た」。今日、私たちが与えられたテキストであるマルコ10章13節以下はそのような言葉で始まる。イエスが町々村々で為されたいやしの評判を聞いた親たちが、イエスに祝福していただくために子供たちを連れてきた。どの親も子供の健やかな成長を願う。イエスは神の力が働いているとしか思えないような数々のいやしの業をなされた。イエスに触っていただくことにより、その不思議な力で子供たちが幸せになれるのではないかと親たちは考えた。
・子供たち=パイデイア、並行のルカ福音書では乳飲み子をさす「ブレフェー」という言葉が使われている。幼な子たちである。幼な子は自分一人では生きていくことが出来ず、親の支えがないと生きていけない。そして、幼な子は親は自分を愛し、守ってくれるはずだと無条件に信じている。ここに幼な子の強さがある。それ以外の生き方は出来ないからだ。
・大人はこの幼な子の強さを持たない。誰かに支えてもらうことを恥ずかしいと思い、一人で生きていかなければならないと思っている。そのため、自分を守ってくれるであろうお金と権力を持とうとする。より多くのお金とより高い地位があれば安全と思い、お互いがお金と権力をめぐって競争する。現代的に言えばよい学校に入り、良い勤め先で働き、家柄の良い人と結婚することが幸せになる道だと考えている。みんながそれを目指すから、誰かは負け、自分の思い通りには行かない。そのため、人生は幻想と幻滅が続く空しいものになる。救いとはそのようなものではない、救いとは幼な子のように、父なる神に全てを委ねて生きることだとイエスは言われるが、弟子たちは理解しない。だから、イエスに触っていただくために、幼な子を連れて来た人々を弟子たちはたしなめる。
・「今、先生は大事な話をしておられる。どうすれば神の国に入ることができるかを話しておられるのだ。子供が騒げば先生の話が聞こえないではないか」。弟子たちはこのように言ってたしなめたのかも知れない。このような出来事は現代の教会でも起きている。牧師が説教をしている、小さい子たちが教会堂の中を走り回り、騒いでいる。うるさくて話が聞こえない、静かにさせてくれないかと会衆は母親をにらむ、にらまれた母親は小さくなる、そして来週は教会に来るのを止めようと思う。毎日曜日、ほとんどの教会で起きている出来事だ。小さい子供を連れて教会に来た事のある母親のほとんどが体験している出来事だ。
・イエスはそのような弟子たちを見て怒られた。イエスが怒られることはめったにない、そのイエスが怒られた。何故ならば、弟子たちがイエスのもとに来ようとしている子供たちを妨げたからだ。私たちが、教会堂で子供が騒いでうるさい時、その母親をたしなめるのも、本当は同じ行為なのだと聖書は語る。母親は毎日の子育てで疲れている。その疲れをいやす為に教会に来て、神の言葉をいただこうとしている。しかし、子供が騒ぎ、みんなからにらまれて母親は説教を聞くどころではない。母親を妨げているのは私たちだ。子供を排除するのではなく、うるさくても良いから子供たちであふれている教会を造りなさい。イエスはそういわれているのではないか。
・イエスの時代、人々は律法=神の戒めを守れば救われると考えた。子供は律法については無知であり、神の前に何の功績をも持ちえない。律法を守ると言う点では子供は未完成だ。そのため、当時のユダヤでは子供たちは高く評価されていない。現代の日本でも同じだ。競争に打ち勝つ強い者こそ価値が高いと言う世界では、体力の弱い女・子供は評価されない。教会は女・子供の行くところ、弱いものが助けを求めていくところだという考え方が日本にはある。教会は正に弱いものが集まるところだと思う。自分が弱く、神の助けなしには生きることが出来ないことを知っている人達が教会に集まる。私たちは自分が弱いことを恥とは思わない。人間はみな弱いのだ。自分は強いと思っている人は見えないのに見えると言い張っているだけの人であることを、私たちは知っているからだ。


2.幼な子のようにならなければ

・「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。」(マルコ10:14)とイエスは言われる。神の国は私たちが神を受けいれる時に来る。イエスは神を「アッバ」と呼ばれた。アッバとは幼な子が父を呼ぶ時の呼び方だ、「お父さん」あるいは「お父ちゃん」と訳するのが一番近いかも知れない。イエスご自身が、神をご自分の父として信頼し、委ねてその生涯を生きられた。だから、そのイエスを受けいれる生き方とは、幼な子のように、自分を愛してくれるものがあり、その方が自分を養い守って下さることを無条件に信じ、受けいれることだ。大人もまた、このような小さなものにならなければ、救いはないと聖書は主張する。
・幼な子のようになるとは、自分の弱さを認め、他人の助けなしには生きていけないことを認めることだ。大人は自立しようとして、かえって自分自身と他人を傷つけている。神に従属しないものは自分自身か、あるいは他の人に従属する。自分自身に従属する生き方を自己中心主義(エゴイズム)と呼び、他者に依存して生きる生き方を偶像崇拝主義(エイドーロラトウリア)と呼ぶ。人は何かに依存しなければ生きていけない存在なのだ。
・奢り高ぶる人は自分が愛されていないのではないかという恐怖心を持っており、その恐怖心がおごりとして他者に対する強がりとなる。神を信じることの出来ない人は人を信じることも出来ないから、他者は常に自分の競争相手、何時自分を蹴落としてとって代わるかも知れない存在になる。私たちは歴史の中に多くの事例を見ることが出来る。イエスが生れられた時、ユダヤを治めていたのはヘロデ王であるが、ヘロデは武力で王にまでのし上がった。自分が血統的にはユダヤの王に相応しくないことを知っていたから、名門のハスモン家から妻をめとり、子をもうけた。しかし、そのハスモン家が自分を滅ぼそうとしているのではないかと邪推し、ハスモン家出身の妻を殺し、妻の母と弟を殺し、最期には自分の子さえ、ハスモンの血の故に殺した。ヘロデが回りのものを次々に殺していったのは、ヘロデが強い人間だからではなく、人を信じることが出来ない、つまり恐れていた人間だからである。自分を強いと思う人ほど、自分の弱さを恐れている。自分が弱いことを認め、その弱い存在のままで父に受けいれられている事を認める時、その弱さが強さになる。それが幼な子の強さであり、その幼な子のようになりなさい、それが神の国に入る唯一の道であるとイエスは言われている。
・この幼な子の記事に続いて金持ちの青年の記事がある(マルコ10:17以下)。金持ちの青年がイエスの所に走りより、「永遠の命を受ける為には何をしたら良いのでしょうか」と尋ねる。イエスは「殺すな、姦淫するな、盗むな等々の神の戒めを守りなさい」と青年に言われた。青年は胸を張って答えた「それらのことは小さい時から守っております」。青年は律法をきちんと守っている自分こそ救いに価すると信じている。その青年にイエスが言われた「あなたに足りないものが一つある。持ち物を全て売り払い、貧しい人に施しなさい。そして、私に従って来なさい」。青年は下を向いて立ち去る。金持ちで、その持っているものを捨てることが出来なかったからだ。持ち物を捨てられない、即ち父なる神に依り頼むのではなく、自己に依り頼んで生きる生き方を捨てられなかった。幼な子のようになることが出来なかったのだ。私たちもこの青年のように、自分の誇り、自分の拠り所となるものを捨てることが出来ない。

3.生まれ変わりなさい

・パリサイ派の教師、ニコデモもこの金持ちの青年と同じだった。イエスはある時、ニコデモに答えて言われた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない』」(ヨハネ3:3)。ニコデモは学問を修め、律法を守る人格者として民衆の尊敬を集め、ユダヤ議会の議員でもあった。先生と言われる人間だった。そのニコデモが夜にこっそりとイエスの元を訪れ、どうすれば救われますかとイエスに尋ねた。夜に訪れたのは、自分がパリサイ派の教師であり、その教師がイエスのもとに教えを請うために訪れたことを人に見られたくなかったからだ。イエスはそのようなニコデモに「誰でも新しく生れなければ神の国を見ることは出来ない」と言われた。ニコデモは理解できない。そのニコデモの疑問が4節にある。「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。ここでイエスが言われているのは幼な子のように全てを父に委ねて生きよと言うことだ。自分が大人であり、誰の助けもなしに生きていけると思うところにあなたの誤りがある。だから一度、大人のあなたに死に、幼な子のようにただ父を慕って、父の守りの中に生きなさい、それが救いであり、それが神の国を見ることだと教えておられる。
・ここでイエスは、子供たちが純真で無垢であるから子供のようになれと教えておられるのではない。子供は一人では生きていくことが出来ず、親の愛情だけを頼りに生きる。あなたも一人では生きていけないことを認め、神を父として受けいれよ、そのときあなたの隣人も父を同じくする兄弟姉妹となる。イエスが山上の説教で言われた言葉「心の貧しい人は幸いである。天国は彼らのものである」(マタイ5:3)も同じ意味だ。自分の中に誇るものがなく、生きていくのに頼りにするものが何もない、その時人は父に頼らざるを得ない、父は求めてくるものには豊かにお与えになる。だから心貧しい者、何も持たないものは幸いであるとイエスは言われる。神の国とは人間が造る理想郷、地上で善行を積んだ人が入るような天国とか極楽とか、そういうものではなく、既にそこにあるものであり、恵みとして受けいれればよいとイエスは言われている。そして幼な子のようになればそこに入ることが出来るのだとイエスは教えられる。幼な子のようであれ、この言葉を毎日の生活の中で考え直して見なさいと聖書は私たちに呼びかけている。

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