江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2002年7月7日説教(マルコ8:22-26、見えないことを知る)

投稿日:2002年7月7日 更新日:

1.ベツサイダでの盲人のいやし

・マルコは多くの奇跡物語を伝え、大半の奇跡物語はマタイやルカも並行して伝える。福音書は最初にマルコが書かれ(紀元70年頃)、その後にマルコを下敷きにしてマタイとルカが書かれたと言われている(紀元80年頃)。だからマルコの記事の大半はマタイとルカにある。しかし、このベツサイダの盲人のいやしだけはマタイにもルカにも無い。ここでイエスは一人の盲人の目に二回触れておいやしになっている。つまり、一回ではいやしが出来なかった、あるいは不十分ないやししか出来なかったと書かれているため、マタイとルカは自分たちの福音書には転載しなかったのではないかと考えられている。
・しかし、マルコ福音書のこの個所だけではなく、前後の文章も併せ読む時、マルコはある意図をもって、この二段階のあるいは時間をかけたいやしの出来事を書いているのではないかと思える。今日はこのマルコ8章の盲人のいやしを通して、何故イエスが二度も盲人の目に触れていやされたのか、それがどのような意味を持っているかをを共に学んで見たい。


2.盲人の目に二度触られるイエス

・イエスと弟子達は、湖を渡り、ガリラヤに戻られ、ベッサイダの村に行かれた。この村はガリラヤ湖北岸にあり、訳すると漁師の家、漁師であった弟子のペトロの出身地である。一行がこの村に着いた時、人々が一人の盲人を連れてきて、触れていただきたいと願った(マルコ8:22)。イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行き、その目につばをつけ、両手を目の上に置かれていやされた。盲人は言った「人が見えます。木のように見えます。歩いているようです」(マルコ8:24)。彼は人が木のように見えた、歩いているようだ。彼は見えるようになったが、まだぼんやりとしか見えない。そこでイエスが再び盲人の目に手を置かれたところ、はっきり見えるようになった(マルコ8:25)。最初のいやしではぼんやりとしか見えなかったものが、二度目のいやしではっきりと見えるようになった。
・マルコはイエスが4千人を七つのパンで養われた奇跡の後で、この盲人のいやしを記している。マルコの意図は明らかだ。弟子達は7つのパンで4千人が養われるのを見た。物理的には不可能なことが起こった。しかし、弟子達はこのことの意味がわからない。だから、帰りの舟の中で、今手元にパンが1つしかなく、これでは13人が食べることが出来ないと騒いでいる。7つのパンで4千人が養われたのであれば、1つのパンで13人が食べることは可能であろう。しかし、弟子達は理解しない。だからイエスが言われた「なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞えないのか。まだ思い出さないのか。」(マルコ8:17-18)
・「目があっても見えないのか、私が誰であるかをまだ悟らないのか」とイエスは言われる。今、弟子達はぼんやりとしか見えていないのだ。イエスが神から遣わされた救い主であることを示されながら、まだ理解していない。だから、エルサレムに向かう途上で、弟子達は誰が一番偉いかを議論し(マルコ9:34)、イエスが栄光をお受けになる時は私を右に、私は左へと求めている(マルコ10:37)。弟子達はイエスが十字架のためにエルサレムに向かっておられることが見えない。だから弟子達はイエスが捕らわれて十字架にかけられた時、イエスを捨てて逃げた。十字架で死なれることがイエスの使命であるとは考えてもいなかった。その弟子たちがはっきりと見えるようになるのはイエスの復活後である。復活のイエスに出会った後は、弟子達はもう逃げなかった。十字架の意味がわかったから、彼ら自身も喜んで十字架で死んでいった。復活の後、やっと彼らは見えるようになったのである。
・私たちの信仰生活もこの弟子たちと一緒だ。今はぼんやりとしか見えていない、今は完成されていない。だから、バプテスマを受け、キリスト者になっても罪を犯し続けるのだ。だから教会の中に罪があるのだ。しかし、やがてはっきりと見える時が来る、完成される時が来る。その時を待ちなさいとマルコは私たちに伝えている。


3.見えないことを知る。

・この盲人は自分一人ではイエスの下に来ることは出来ず、人に連れられてきた。彼は自分が見えないことを知っていた。イエスが最初に手を置かれた時、見えない目が見えるようになったが、まだぼんやりとしか見えていないことを知っている。だからイエスに求めた、「見えますがまだぼんやりしています。もっと、はっきり見えるようにしてください」。その願いに答えてイエスは二度目のいやしを為された。信仰者はこの最初のいやしの段階にあるのではないかと思う。キリストに出会うことによって見えるようになったが、まだぼんやりとしか見えない。イエスが来られることによって神の国は来た、しかしまだ完成していない。私たちは今は神の国ではなく、地の国にいるのだ。だからぼんやりとしか見えない、だから相変わらず罪を犯し続ける。
・パウロは自分がこのような情況の中にあることを理解していた。今日の招詞に1コリント13:12を選ばせていただいた。「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。」
・パリサイ人は見えていないのに見えると言い張り、イエスの言葉に従わなかった。私たちも完全には見えていないのに見えると言う時に、罪を犯す。自分と異なる他者を見て「彼は異端だ」とか、「あの人の信仰は曲がっている」とか言い出す。自分を正しいとする時、私たちもパリサイ人のパン種になっているであり、もう一度イエスに手を置いていただく必要があることを、マルコは信じないパリサイ人と愚かな弟子たちの記事の後に、この盲人のいやしの記事を挿入する事によって示しているのだ。


4.見えないことを知って生きる

・イエスは私たちに「敵を愛せ」と教えられた。私たちは自分を憎むもの、自分を嫌うものを愛することは出来ない。私たちが愛することが出来る人は自分を愛してくれる人、あるいは自分が好意をもつ人だけである。それにも関わらず、イエスは言われる「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:46-48)。
・あなた方は私と出会って見えるようになったではないか。まだぼんやりとであれ見える。それが全く見えない人たちと同じように行為するのは何故かと問われている。しかし、私たちはイエスの言葉を聞くが実行しない。出来ないと思っているからだ。しかし、出来なくて当たり前だ、見えなくて当たり前だということを認識する時、この言葉の意味が変ってくる。
・作家の曽野綾子さんは、NHK教育テレビ・人間講座で放送した原稿をまとめて、「現代に生きる聖書」と言う本を出版した(NHK出版)。その中でこの敵を愛せということについて、概ね次のように語っている。
「聖書に出てくる愛には、フイリアと呼ばれるものとアガペーと呼ばれるものがある。フイリアとはお互いに好意を抱く感情、好きとか尊敬するという愛である。他方のアガペーは敵を愛すると言う時の愛、他者のために死ぬ愛である。フイリアは人間の自然な感情であるが、他方アガペーは人間の中には元々無く、努力によって実行される愛である。・・・例えば仲の悪い嫁と姑がいて、お互いに顔を見るのもいや、相手の使ったタオルに触れるのもいやと言う関係があったとしよう。その時私たちは自分はクリスチャンだから相手を好きにならなければならないと思い込み、好きになれないことを罪のように思う。しかし、聖書が言うのは、愛するとは好きにならなくとも良い、嫌いなままでいい。嫌いだけれども、もし姑が自分の実の母親だとしたら自分はどう行動するだろうかを理性的に考えて行為せよということだ。嫌いだけれど、もし好きだったら何をするだろうかと考えて行為する。例えば病気になったら薬を持っていってあげる、寒くなったら暖かい衣服を買ってあげる、食欲が無かったら好きなものを料理してあげるとかする。そのうちに自然と両者の間に、意思的な愛を超えた自然な好意の還流が成り立つ。即ちアガペーの愛を生きようとする時、フイリアの愛が生まれるのだ」
・曽野綾子さんの言われたことはパウロが次にように述べたことと同じと思われる(ローマ12:19-21)。
「愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復すると書いてあるからである。むしろ、もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。あなたの敵が餓えていたら食べさせてみよ、渇いていたら飲ませてみよ、その時どのような変化が起きるかを試してみよ。敵だった相手に好意を持ちつつある自分がいて、固く閉ざされていた相手の心が開き始めたことを知るであろう。
・自分がまだはっきりとは見えていないことを知るものは、即ち自分がどのようにしてもこの嫁あるいは姑が嫌いであることを知るものは、相手を裁かず、ただ私を完全なものにしてくださいと主の哀れみを請い求める。その時、出来なかったこと、例えば嫌いだった相手を何時の間にか好きになっている等が出来るようになっていることを知る。私たちは自分が見えないことをきちんと認識することが必要だ。この盲人のように「まだはっきりとは見えません。もう一度いやしてください」と求めることが必要だ。私たちは罪人だ、だから教会に来る。教会の中に罪がある、だから主を求める。そして今はぼんやりとしか見えず、不完全であるけれどもそのときにははっきり見えるようになる希望を持つ。やがては完全なものにされるとの約束に生きる。マルコの物語はそのことを私たちに示している。

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