江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2002年4月28日説教(ヨハネ15:1−11、私につながっていなさい)

投稿日:2002年4月28日 更新日:

1.イエスはまことのぶどうの木

・今年、私たちは教会暦に従って聖書を読んでいる。教会にとって、最も大事な出来事はイエスが十字架につかれ、三日目に復活されたことである。イエスは過ぎ越しの祭りの金曜日に十字架につかれた、今年の暦では3月29日の金曜日が受難日で、3月30日が復活日、イースターだった。復活されたイエスは40日間、弟子たちと共におられ、昇天された。今年は昇天日が5月9日になる。即ち、4月28日の今日は、イエスが復活されて昇天されるまでの期間にあたる。今日は、復活節第五主日、私たちはヨハネ15章から、世を去られるにあたり、イエスが弟子たちに残された言葉を先週に続いて聞いていく。
・イエスは弟子たちと最期の食事を取られた後、彼等に言われた「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。・・・私につながっていなさい。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことが出来ないように、あなた方も私につながっていなければ実を結ぶことは出来ない」(15:1−4)。
・先週、ヨハネ13章からイエスが世を去られるにあたり、弟子たちに残された言葉を共に学んだ。「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」。私たちは、自分を愛することができるが、本当には人を愛することは出来ない存在である。人を愛するように思えても、それは自分の利益になるから愛するのであり、その人が自分にとって重荷になったり、わずらわしくなれば捨ててしまう。人間が本当に人を愛することができる、その人の為に死ぬことができるようになるのは、イエスが私たちの為に死んでくれたことを知るときである。イエスにつながることによって、私たちは人を愛することができる存在になる。9節「私の愛のうちにいなさい」、イエスの愛のうちにいることこそが必要である。「いなさい」と言う言葉はメノウと言うギリシャ語が使われている。4節「私につながっていなさい」、つながるという言葉も同じメノウである。私につながりなさい、私にとどまりなさい、私の愛の内にいなさい、何故ならばあなた方は枝であり、枝は幹を離れては生きていくことが出来ないからであるとイエスは言われる。
・木の生命は根であり、その根から幹が伸び、幹から枝が分かれる。枝は幹から栄養分や水分をもらうことによって、花を咲かせ、実を結ぶことが出来る。幹から離れた枝は枯れるばかりである。イエスは言われる「わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。」(15:2)。
・イエスの宣教としるしによって、多くのものがイエスこそ神の子と信じた。やがて、イエスが十字架で死なれ、その後、復活されることによって、教会が生まれていく。生まれたばかりの教会はユダヤ教正統派からは異端として迫害を受け、ローマ帝国からは邪教として弾圧され、その迫害や弾圧の中で多くのものが教会から脱落していった。本当にイエスにつながっていなかったからである。それに対し、危機に直面してもなお、イエスをキリストと告白し、神の子と信じる者は、殺されても信仰を曲げなかった。弟子たちの死をも恐れない信仰を見て、多くの者がキリストこそ神の子と信じていった。歴史において、ある枝は取り除かれて枯れ、ある枝は豊かに実を結んだのである。


2.ぶどうの木

・ここでイエスはぶどうの木を例えに、信仰のあり方を話されている。パレスチナではぶどうはオリーブと並ぶ代表的な果物だ。ぶどうはイスラエル民族の象徴とされ、預言者たちはイスラエルを神のブドウ畑、あるいはぶどうの木と呼んでいる。ほとんどのぶどうは加工されてぶどう酒にされたが、オリーブ油とぶどう酒は豊かさの代名詞であった。同時に、ぶどうの栽培は手間暇がかかることでも良く知られていた。
・ぶどうの枝は非常な勢いで繁茂するため、徹底的な剪定、刈り込みが必要とされる。ぶどうの若木は植えられてから3年間は実を結ぶことが許されず、徹底的に刈り込まれることによって命を蓄え、良い実を結ぶように準備される。成熟したぶどうの木は秋に収穫された後、12月から1月にかけて剪定される。実のなる枝と実のならない枝があり、実のならないぶどうの枝は木の力を浪費させないために徹底的に刈り込まれ、切り落とされていく。ぶどうの木はこのような刈り込みをしなければ豊かに実を結ばないことをイエスは良く知っておられた。
・私たちはぶどうの幹ではなく、枝であり、実を結ばない枝は捨てられる。故に幹であるイエスは言われる「私につながっていなさい」。つながる、イエスを離れて人はその信仰を維持することができず、信仰の実は枯れてしまう。どうすればイエスにつながることができるのか。現代にあってはイエスからその宣教を委託されている教会につながることである。教会に留まっていなさい、教会につながっていなさい、ある人は言うだろう「私は教会に失望している。教会など要らない、私は自分で聖書を読み、祈ることによってイエスにつながり続けることが出来る」。私たちの知る範囲では、教会を離れた人は信仰からも離れる。教会につながっていることが必要だ。
・教会とは、キリストを主と告白し、キリストにつながることを約束した人の集まりである。キリストにつながることによって罪を許され、命が与えられる。しかし、罪が許されても尚、罪人である訳であり、教会の中に罪が残り、教会の中に悪がある。ある時は牧師が過ちを犯し、ある時は信徒が過ちを犯す。多くの人々はその牧師や信徒の罪を見て、教会に失望し、教会から離れる。しかし、教会から離れた時、教会の頭であり、命の源であるキリストからも離れる。「私につながっていなさい、つながっていなければ枝は枯れてしまう」というイエスの言葉は真実である。

3.キリストにつながる

・パウロはコリント教会に、繰り返し手紙を書いた。コリントの教会は争いが絶えなかったからである。コリント教会はパウロの第二回伝道旅行の時に開拓され、やがてパウロは他の教会への伝道のためコリントを離れることになり、コリント教会をアポロに託した。二代目牧師となったアポロは雄弁で、その説教は多くの人をひきつけた。新しくコリント教会に集められた人たちはアポロを中心に教会の発展を図ろうとし、古くからの教会員は初代牧師であるパウロの教えに立つべきであると主張し、ここにパウロ派とアポロ派の対立が生まれた。そのコリント教会に対し、パウロは手紙を出した。その個所が今日の招詞である第一コリント3章である(新約聖書258頁)。招詞は6‐7節であるが、手紙の文脈を知るために1節からみて見よう。
「3:1 兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。3:2 あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。3:3 あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。3:4 すなわち、ある人は「わたしはパウロに」と言い、ほかの人は「わたしはアポロに」と言っているようでは、あなたがたは普通の人間ではないか。3:5 アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。3:6 わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。3:7 だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。」
・パウロは言う、「アポロもパウロもキリストから栄養分をいただいて生きる枝に過ぎない、枝につながっても実を結ぶことは出来ない。幹であるキリストに、そしてそのキリストを支えておられる根である神につながっていなさい。確かに私パウロがこの教会の土台を造った、そしてアポロがこの教会を大きくした。しかし、パウロもアポロもあなたたちをキリストまで連れて行く役割を負っているの過ぎない。この教会を成長させて下さるのは神なのだから」。教会の頭はキリストである。教会の中に罪があり、悪があろうと、ここにキリストがおられる。だから教会につながっていなさい。
・今日、私たちの教会は二人の幼児を与えられた。渡辺晃司君と高橋健二君である。この二人がこれから教会の子として育てられ、教会につながり続けることによって、キリストの愛に留まり続けることが出来るように、幼児祝福式を行う。お二人は渡辺ご夫妻、高橋ご夫妻の愛の形として命を与えられた。そして、これからご両親の育児のなかで成長していく。しかし、ご夫妻を通して命を与えてくださった方は神であり、その命を成長させてくださるのも神である。二人が大きくなって、自分で「イエス・キリストこそ私の主です」と告白し、バプテスマを受けることが出来るまで、教会は神の委託に基づいて二人の成長を見守っていく。
・「私につながっていなさい、私がその使命を託した教会につながっていなさい、この教会の頭は私である」というイエスの言葉を今日、この幼児たちと共に聴けることを喜びたい。

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