江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2002年3月17日説教(マタイ13:24−30、36−43、毒麦と良い麦)

投稿日:2002年3月17日 更新日:

1.毒麦の譬

・マタイは毒麦の譬を二回に分けて記す。最初の譬(13:24-30)では良い種が畑に播かれたのに、芽がでて実ってみると毒麦も一緒に現れたと言う。27節「僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』」。神が創造され、現在も支配されているこの世界に何故悪が存在するのかがここで問われている。二番目の譬は13:36-43で、これは前の譬の解説の形をとって、教会の中に何故悪が存在するかが問われている。37-38節「良い種をまく者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである」。人の子イエスが福音の種をまかれ、人々が教会の中に集められてきたのに、その教会の中に毒麦、即ち悪が存在するのは何故かが二つめの譬で問われている。論点が世の中全般から教会へと絞られている。
・最初の譬は世の中に何故悪が存在するのかという一般的な問いかけ、二番目の譬は教会の中に何故悪が存在するのかという個別的な問いかけ、この譬を通じて二つの問題が問われている。おそらくは最初の譬はイエス自身が語られ、二つめの譬はイエスの言葉を受けてマタイが自分自身の教会について語った編集的なものと思われている。

2.最初の問いー世の中に何故悪が存在するのか

・最初の譬では、良い種を播いたのに毒麦も一緒に芽を出したと言われている。この毒麦が、この世にある悪を指すことは明らかである。世界は神が創造されたのに、実際にはこの世に悪がある。何故、悪があるのかについては、譬は直接には答えていない。悪があることが前提になっている。譬では毒麦を抜きましょうかと問う僕に対して、主人はそのままにしておきなさいと答えている(28-29節)。イエスの時代、多くの人々が自分たちが毒麦と考える人たちを抜こうとしていた。パリサイ人は律法を厳格に守ることを通して、守らない人たちを罪びととして排斥していた。ゼロータイ(熱心党)と呼ばれる人たちは異教徒ローマに協力的な人々を背教者として暴力的に排斥することによってユダヤ教の純粋性を守ろうとしていた。また、エッセネ派と呼ばれた人たちは砂漠の中に自分たちだけで住み、世の穢れの染まった人々と縁を断とうとしていた。いずれも自分たちは良い麦であり、自分たちと異なるものを悪い麦、毒麦として排除しようとしていた。イエスは彼らを批判し、改めさせるためにこの譬を語られたと思われる。
・イエスはパリサイ派やエッセネ派が排除した取税人や娼婦さえも神が愛されるものとして拒否されなかった。29-30節「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」。世の中には人間の目から見てよい人も悪い人もいよう。しかし、天の父は罪人が悔改めて帰ってくることを望んでおられる。我々が行うべきことは悪いと思われる人を排斥することでなく招くことではないか。最期に裁かれるのは神であり、人間ではない。刈り入れの日、即ち終末の日まで毒麦を抜いてはいけないのだとイエスは言われている。

3.第二の問いー教会に何故悪があるのか

・36節からの第二の譬はは第一の譬の解説部分として構成されている。37節「良い種をまく者は人の子」即ちイエスである。イエスの宣教とそれに続く弟子たちの伝道により多くのものが教会に招かれてきた。しかし、その教会の中にも良い麦と毒麦が混在している。イエスの宣教から50年を経たマタイの教会の中に、自分たちは正しいとして他の教会員を排除する人々がいたのであろう。マタイはそのような教会員に対し、イエスの言葉を受けて、誰が良い麦で誰が毒麦かを判別し裁くのは神の業であり、人間がそれを行えば教会は崩壊するとのメッセージを送っていると解されている。
・それは47節以下の天国の網の譬を合わせ読むとき、より鮮明になる。イエスは弟子たちを「人間を取る漁師にしよう」(マタイ4:19)として招かれ、弟子たちは人間を取るために湖に網を投げ下ろした。すると網の中に良い魚も悪い魚も共に入ってきた。教会は全ての人を招くが、全ての人がイエスの弟子になるわけではない。その時、人が自分の力で他の人を毒麦ないしは悪い魚として排除する時、教会の中で裁きが行われ、神の民は分裂し、崩壊する。教会の歴史は裁きと分裂の歴史であったし、今日においてもそうである。
・教会の中に何故悪があるのか、私たちには分からない。しかしあるのは事実である。また何を持って悪と言いうるかも難しい問題である。イエスは12人の弟子を招かれた。その中にはイスカリオテのユダもいたし、ペテロもいた。ユダはイエスを裏切った、彼は毒麦であったと言いうるかも知れない。しかし、彼は召命の時から毒麦であったのか、福音書を見る限り、彼はイエスならば世を救う力を持たれているとの希望を持って弟子団に入り、他の弟子たちがイエスを見捨てた後もイエスに信従して来た。とすれば、彼は良い麦として招かれたのに、何時の間にか毒麦に変ってしまったと言える。
・ペテロはどうであろうか。彼は十二使徒の筆頭であり、イエスのために殉教している。彼は良い麦だったのか。しかし、福音書はイエスが捕えられた時、ペテロは大祭司の邸でイエスを否認していることを記述する。ペテロはイエスを裏切った。その時は彼は毒麦であったのか。ペテロの行為とユダの行為はどこが違うのか、同じであろう。とすればユダは良い麦であったのに毒麦に変えられ、ペテロはイエスを裏切った時は毒麦であったが、やがて良い麦に変えられたとしか思えない。同じ人が良い麦にも毒麦にもなりうるのではないか。


4.教会の中にある毒麦にどう対処するのか

・教会の中に何故悪があるのかを追求した人はアウグステイヌスであった。彼は言う。誰が毒麦で誰が良い麦であるかはわたし達にはわからない。全ての信徒が毒麦にも良い麦にもなりうる。ある意味では、わたし達各自のうちに毒麦と良い麦が共存しているともいえる。だから、他人が毒麦であるか否かを裁くよりも、むしろ自分が毒麦にならないように、自分の中にある良い麦を育て、毒麦を殺していくようにとアウグステイヌスは勧める。つまり、教会の中にある毒麦的なものはただ否定されるべきものではなく、むしろ、その責任をわたし達教会の仲間がともに引き受けていくのが、教会に生きるわたし達の課題であると説く。だから最後の裁きは神に任せる。例え弱い信徒があってもそれを助け、それに耐えて、それによって自分たちの信仰をいっそう清め強めていく。そのためにあるものとして教会の中にある悪を理解する。
・同時に神の国たる教会の中にある良い麦と毒麦という事柄を教会を越えて考えたとき、そこに神の国と地の国という思想が生じてくる。神の国と地の国は単純に教会と地上の国家との対立だけではない。神の国は地上の国家の中にもありうるし、逆に教会の中にも地の国が含まれうる。見える教会がそのまま神の国ではなく、地上の国家がそのまま地の国ではない。神を愛して自己愛を殺すに至るような愛が神の国を造り、自分を愛して神に対する愛を殺すに至るような愛が地の国を造る。現実の私たちは神中心の愛と自己中心の愛の双方を持つ弱い人間であるから、ありのままを神に告白し、その助力を乞い、そういう仕方で絶えず神の国に加えられていく、生かされていくことが神の国に生きることであるとアウグステイヌスは言う。最期に彼は言う「神は悪をも善用されるほどに全能であり、善なる方である」と。裁きはこの神に任せよと。

5.私たちの問題としてこの問題を考える。

・イエスは自分たちだけを正しいとして、異なる人たちを裁くパリサイ派やエッセネ派の人々を戒めるために、この毒麦の譬を語られた。マタイはその譬を自分たちの教会に向けられたメッセージであると理解し、教会の中で他の人々を毒麦として排除する人々を戒めるために、譬の解説を加えた。私たちもまた、私たちに向けられたメッセージとしてこの譬とその解説を聞く時、マタイ13:30の言葉が重い意味を持って迫ってくる。
「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう。」
・私は東京バプテスト神学校で4年間学び、卒業と同時にそれまでの勤務先を止め、牧師になった。同時に学びが足りないことを自覚していたため、東京神学大学に編入学し、神学の学びを続けた。牧師兼神学生としてのスタートを2年前に切った。赴任した伝道所は宣教師に育てられた伝道所で、その信仰は福音主義的、ファンダメンタル的であった。赴任してしばらくすると、一部の教会員から私の説教が自由主義的でバプテスト的ではないという批判が起こった。当初はお互いがもっと知り合えば誤解は解ける、教会は「主にあって一つ」なのだからと考えていたが、誤解は解けず、批判は高まっていった。そのうち、私は自分を批判する人たちを「彼等は本当にクリスチャンなのだろうか、もしかしたら彼等は教会の中にある毒麦ではないか」と考えるようになった。誰かを毒麦と考え始めた時、自分自身が毒麦になって行く。私は伝道所の牧師を1年で辞任した。
・このマタイ13章のメッセージは明確である。刈り取られる方は神であり、私たちではない。私たちが教会の中にある罪を自分で刈り取り始める時、即ち毒麦と思える人を裁き始めた時、私たちは自らを神とする冒涜者になっていく。教会は未完の、完成を目指して歩む途上の存在であると思う。私たちは教会の中に罪があることを認める。それを認めた上で、除去は主に委ねる。もし、私たちが自分は正しいとして、罪あるいは毒麦と思えるものを抜こうとする時、私たちが毒麦になっていき、教会は崩壊する。自分の中にも毒麦があることを知った人が共に教会形成を目指す時、その教会から毒麦が除かれるのではないかと思う。
・私はマタイ13章のメッセージを自分の失敗の中で聞いた。そして主はこの聞いたことを伝えよとして新しい宣教の場を与えられた。この3月で東神大を卒業し、新しい教会の牧師として赴任していく。今日が赴任前の最期の説教である。この機会を与えられたことを感謝している。

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