江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2002年2月3日説教(ルカ24:13−35、私たちの心は燃えたではないか)

投稿日:2002年2月3日 更新日:

1.復活の証人の話を聞く。

・ルカは、十字架に死なれたイエスが三日目に復活されて、エマオに向かう二人の弟子たちに現れたと記す。イースターが近づいている(3月31日)。今日は、復活のイエスに出会った二人の証人の話を聞きたい。
・ルカによれば、「この日、二人の弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオと言う村に向かっていた」(13節)とある。この日、週の始めの日、イエスが十字架で亡くなられて三日目の日であった。エマオまでの道のりは七マイル(原文では60スタデイオン)、11キロ、歩いて三時間の道のりである。時刻はおよそ二時ころ、何故なら彼等がエマオに着いたのは夕刻で、歩いて三時間の道のりであったから。
・弟子の一人はクレオパ(18節)、もう一人はその息子のシモンであったと言われている。ギリシャ名=クレオパ、ヘブル名=クロパ。このクロパの妻はイエスの十字架に立ち会っている(ヨハネ19:25)。おそらく、彼等の家はエマオにあった(29節:私たちと一緒にお泊まりくださいとイエスに言っている)。彼らは過ぎ越しの祭りに神殿に参詣するために、一家でエルサレムに行った。そこでイエスの十字架を目撃し、失意の中に、親子で、エマオに帰るところであったと思われる。
・ルカ24:13を分かっている事実を入れて、具体的に書き直せば、次のようになろう。
「紀元30年の春、週の初めの日、イエスの十字架から三日目の午後二時ころ、イエスの弟子であるクレオパとその子シモンが、エルサレムでイエスの十字架に出会い、失意の内に、自分たちの家のあるエマオに向かって歩いていた」。


2.失意の弟子たちにイエスが近づかれた。

・「彼らは一切の出来事について互いに語り合いながら道を歩いていた」(14節)。何を語っていたのか、おそらくは、イエスが死なれて望みは絶たれたと言う嘆きと、今朝、仲間の婦人達が経験した不思議な出来事(1―12節、婦人達がイエスの墓に行ったところ、墓の石が転がされて死体が無くなっていたこと)等について、ため息混じりに話し合っていたのであろう。
・そこにイエスが近づかれて、彼等と一緒に歩かれ、「何を話しているのか」と尋ねられた(17節)。しかし、二人はその同伴者がイエスであることに気がつかない。心の目が閉じている時、人はイエスを見ることができない。マザー・テレサはカルカッタの高校教師だったが、ある日、路上に捨てられて死んでいく老人の顔の中にイエスを見て、全てを捨てた。しかし、他の人には、その老人は、ただの死につつある老人にしか過ぎなかった。同じものを見ても、心の目が閉じている人は見えない。弟子たちもイエスが分からなかった。
・「二人は悲しそうな顔をして立ち止まった」(17節)とルカは書いている。何故、悲しいのか。二人はイエスこそイスラエルを救うメシヤであると思っていたのに、彼は殺され、希望は挫かれた(21節)。彼らはイエスの力ある言葉と業を見て、この人こそ神の子と信じたのに、神はイエスを救うために何もされず、彼等の信仰は打ち砕かれた。更にまた、今朝は、女たちがイエスの墓に行ったところ、死体さえも無くなっていた。彼らは二重にも三重にも打ち砕かれ、悲しそうな顔をしていた。そして彼らは旅人の質問に、堰を切ったようにその苦しみと失意を語り始めた。
・その彼等にイエスは語りかけられた「愚かで心の鈍い者達」(25節)。これは叱責ではなく、また嘆きでもない。イエスは彼らと一緒にいた3年の間、神の業がどのようにして現れるかについて、繰り返し教えられた。しかし、イエスの十字架に直面した弟子たちは、怖くなって逃げ去った。そして今「イエスは生きておられる」(23節)との使信が婦人たちを通して伝えられたのに、弟子たちは「愚かな話と思い」(11節)、信じなかった。この二人もイエスの体が取り去られたことを不思議に思いながらも、イエスが復活されたとは信じていない。それでもイエスは弟子たちに現れ、彼等の目が開かれることを期待された。だから、彼等に聖書の解き明かしをされ、メシヤは苦難を通して栄光を受けると書いてあるではないかと語られた。彼等の目はまだ開かれない、しかし、彼らは旅人の話にただならぬものを感じた。だから、目的地のエマオに着いた時、先を急ごうとする旅人をしいて引き止めた(29節)。
・もし、彼等が引き止めなかったら、イエスは先に行かれ、彼らはその人がイエスであることは分からなかったであろう。イエスは求めるものには、その姿を現される。求めないものは、イエスに出会うことは出来ない。
「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(ヨハネ黙示録3:20)。
・信仰はあくまでも自由であり、自発である。イエスは外にたって戸をたたいておられる。戸を開ける者はイエスに出会い、開けない者は出会わない。イエスは私たちの目が開くまで待たれる。二人の弟子はイエスを強いて引き止めたから、イエスに出会った。


3.二人はやっとイエスが分かった。

・イエスは二人の求めに応じて、家に入られ、食事の席につかれた。そして、イエスが「パンを取り、祝福して裂き、彼等に渡された時、彼等の目が開け、それがイエスであることがわかった」(30―31節)とルカは記す。「パンを取り、祝福して裂き」とは最後の晩餐の時、イエスが行われた行為である(ルカ22:19)。ルカは、最初の聖餐式はこのようにして、エマオで行われたと記す。
・弟子たちがイエスを認めた時、イエスの姿が見えなくなった。しかし、二人はお互いに言った。「道々お話になった時、また聖書を解き明かしてくださった時、お互いの心が内に燃えたではないか」(32節)。そして「二人はすぐに立ってエルサレムに戻った」(33節)。彼等がエマオに到着したのが夕暮時、食事を囲んだのが6時か7時頃、それからエルサレムまで三時間の道のりであるから、エルサレムに着いて弟子たちに会ったのは10時過ぎであったと思われる。二人は「心が燃えて」じっとしておれなかった。「私たちは復活の主に出会った」ことを語らずにはいられなかった。そのため、彼らは食事をとることも忘れてエルサレムに急ぐ。これが伝道であろう。心が燃えて語らずにいられない。その思いが私たちを伝道に駆り立てる。
・イエスの時代、多くのメシヤと自称するものが出て、一時期人々の注目を集め、弟子が集まったと歴史書は記す。しかし、その全てはメシヤ自称者の死により、弟子たちは散り、運動が終っている。イエスの場合も十字架の時、弟子たちは逃げ去った。それで終るはずだった。他と異なるのは、逃げ去った弟子たちが、やがて「私たちは復活のイエスに会った。そのことにより、私たちはイエスが神の子であることを知った」と宣教を始め、信じる者達が増やされていったことである。復活があったかどうかは歴史的に証明され得ない。しかし「私たちは復活の主に会った」と弟子たちが証言を始め、多くのものが殺されてもその証言を曲げなかったのは歴史的事実である。一旦逃げた弟子たちが、やがてイエスのために死んでいった。
・復活は理性で認識できる事柄ではない。現に弟子たちも自分たちの前にイエスが現れるまでは、「愚かなこと」と復活を信じていない。しかし、失意の中にエマオに戻ったクレオパとシモンが、エマオに着くや否や、食事をとることも忘れて、喜び勇んでエルサレムに戻っていった事実は否定できない。「彼等が復活のイエスに出会った」としか説明できない行為ではないかと思う。

4.復活信仰に動かされて。

・当初、弟子たちはイエスの復活を信じなかった。信じない時、死が全ての終わりであり、死が全てを支配する。死が全ての終わりであれば、私たちには何の希望もない。その時、人は享楽的になり、「私たちは飲み食いしようではないか。明日も分からぬ命なのだ」(1コリント15:32)と言うか、この二人の弟子のように悲観的になり、全ては空しいとため息をつくかのどちらかである。
・復活を信じる時、全ては変る。イエスが分かった時、二人の弟子は言った「私たちの心は燃えていたではないか」。そして、文字通り、走るようにしてエルサレムに戻った。打ち砕かれてエマオに向かう二人と、喜び勇んでエルサレムに戻る彼等の間に何があったかを知って欲しい、ルカはそう語りかけている。

5.最期に
・最期の機会なので、自分のことを少し話したい。六年前に長男と不和になり、その後、彼は私と口を利かないようになり、食事も別の部屋で取るようになった。私の顔を見ると、長男は自分の部屋に閉じこもる。その中で自分は本当にクリスチャンなのだろうかと攻められ、苦しさの中で、東京バプテスト神学校に入学した。週4回の夜の学びを4年間続けた。2年前に卒業を許され、会社を辞め、牧師になった。ただ、牧師としての学びが足りないことを認識していたので、牧師になると同時に東京神学大学に編入学した。50歳で大学3年生になり、長男と同級生になった。子供の学資や、これからの生活費をどうするかの問題はあったが、それには目をつむり、この2年間は、文字通り朝から晩まで、仕事をするように勉強した。そしてやっと今、学びが終わり、4月から江戸川の篠崎教会の牧師として赴任する。この6年間いろいろのことを学んだが、一番大事なことは何かが少し解りかけてきた気がする。このエマオで弟子たちが言った言葉「道々お話になった時、また聖書を解き明かしてくださった時、私たちの心は燃えていたではないか」、このことである。
・詩篇126編が今日の招詞である。
「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう」。
エマオの二人の弟子たちは涙を流しながらエルサレムを出た。そして今、喜びの声をあげてエルサレムに戻っていく。詩篇126編が歌う出来事が今起こったことをルカは伝える。
・世と世の欲は過ぎ去る。私たちもいつか死ぬ。全ては空しい。しかし、空しくないもの、過ぎ去らないものがここにあることを二人の弟子は見出した。復活の出来事は今、この現在を決定する出来事である。イエスが復活され、今もここにおられることを知るものは、心が燃える。私たちの心が燃える時、その集合体である教会の心も燃える。燃えた心は、二人の弟子のように食事も忘れて、「今、私たちは復活の主に出会った」ことを伝えるために、走ってエルサレムに戻っていく。この復活こそ私たちの信仰の中核であり、伝道の原動力である。私たちが燃える時、教会が燃える。是非、この教会が燃える教会であって欲しい。
・蓮見和男と言う牧師が復活について詠った詩がある(蓮見和男「ルカによる福音書注釈下」新教出版社303頁)。その詩を読んで終りたい。
「人は死ぬ、その生は朽ち果てる、ではその生は無意味だったのか。
 誰がその意味を決めるのか、神のみ。
 無から有を造り、有を無に帰せしめ、そしてまた、無から有を造り出す神なしには、この人生は無に過ぎない。
 しかし、神、愛なる神がいます故、全て意味が出てくる。
死んだ者は、空しく朽ち果てるのではない。アウシュヴィッツ、ヒロシマの死者は空しく葬り去られるのでは
ない。
 生ける者と死せる者の主となられた復活の主はそのことを教える」

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